研究課題/領域番号 |
22K13027
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研究種目 |
若手研究
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配分区分 | 基金 |
審査区分 |
小区分01080:科学社会学および科学技術史関連
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
矢口 直英 東京大学, 大学院人文社会系研究科(文学部), 特任研究員 (30882568)
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研究期間 (年度) |
2022-04-01 – 2025-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
4,160千円 (直接経費: 3,200千円、間接経費: 960千円)
2024年度: 1,300千円 (直接経費: 1,000千円、間接経費: 300千円)
2023年度: 1,300千円 (直接経費: 1,000千円、間接経費: 300千円)
2022年度: 1,560千円 (直接経費: 1,200千円、間接経費: 360千円)
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キーワード | イスラーム医学 / イスラーム哲学 / 解剖学 / イブン・スィーナー / 『医学典範』 / ガレノス / 『身体諸部分の用途について』 |
研究開始時の研究の概要 |
本研究は、イスラーム世界の医学における解剖学の扱いと展開を、医学文献の分析を通じて解明するものである。 イスラーム医学の歴史において最も重要な文献の一つであるイブン・スィーナーの『医学典範』に対して多数作成された注釈書は、これまで医学史の研究において十分に注目されてこなかった。本研究ではそれらの医学書としての側面に焦点を当て、ガレノス著作のアラビア語翻訳に始まるイスラーム世界の医学者たちの記述と比較し、それら注釈者たちの解剖学における貢献を評価する。また、彼らの解剖学的見解と、生理学や霊魂論といった他の関連分野の理論との関係を考察し、それら注釈書における解剖学の重要性を明らかにする。
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研究実績の概要 |
昨年度も、古代のガレノス以降イブン・スィーナーの『医学典範』に対する注釈書までの医学書を中心的な資料として、それらの解剖学的記述の読解と分析を行なった。具体的には、ガレノスについては『身体諸部分の用途について』と初心者向けの解剖学著作4点を、イスラーム世界の医学者についてはマスィーヒーの『百の書』、イブン・スィーナーの『医学典範』、イブン・アビー・サーディクの『諸器官の用途について注釈』、ラーズィーとイブン・ナフィースとシーラーズィーによる『医学典範』注釈書、またアブー・ヌアイムとイブン・ジャウズィーとザハビーによる預言者の医学文献とを検討した。これらに加えて、アラビア語文献に由来すると考えられる中世ヨーロッパで流布した『諸部分の裨益について』の分析を行なった。 今回の作業では、以下のことが明らかとなった。まず、『諸部分の裨益について』はガレノスの『身体諸部分の用途について』アラビア語訳に由来する。その内容は大幅に簡略化されており、結果として原典にある創造主を讃美する意図を無視し、純粋に解剖学的記述を凝縮している。純解剖学的記述の編纂を目指す同様の意図はイブン・アビー・サーディクによるガレノス著作の注釈書など、11世紀のイスラーム世界の文献にも見られる。イスラーム世界において解剖学的記述は明確にガレノス著作に依拠しているが、それが単に複製されるのではなく意識的に咀嚼されていたと言える。 一方イブン・スィーナーは諸器官の分類について整理して、伝統的な諸説と自説を述べる。その中では、ガレノス以来諸器官と結びつく能力・機能・用途という組概念が提示されている。『医学典範』の注釈者たちは、別々の由来をもつ諸分類の統一を図り、各々解釈を提示する。しかしこの試みのために、機能の概念の解釈が狭まり、それに連動して解剖探求の中心的概念である用途の重要度が低下した可能性があることが分かった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
昨年度は当初の計画通り、ラテン語の『諸器官の裨益について』およびアラビア語で執筆された医学書の解剖学的記述の傾向について、創造主の讃美という観点から調査した。イスラーム世界における医学書の解剖学的記述はガレノスの『身体諸部分の用途について』に由来することは既に明白だったが、このガレノス著作に見られる創造主の讃美というモチーフがアラビア語の医学書には十分に反映されていないこともまた明らかとなった。この調査はさらに範囲を拡げて、預言者の医学と呼ばれるイスラームの宗教伝統に根ざした一連の医学文献には解剖学的記述が含まれていることがあるものの、創造主の讃美という観点は例外的にのみ見出されることを明らかにした。解剖研究はイスラーム世界において神の被造物の研究を意味し、翻って創造主である神の理解に繋がると解釈されたと、従来言われてきた。そのため、創造主の讃美というモチーフは解剖研究への関心と不可分であるが、その影響がガレノス主義的医学文献でも預言者の医学文献でも薄まっていることの指摘は、解剖研究の事情を理解するために有意義な成果である。 予定していた『医学典範』注釈書の分析は写本資料に基づいているため、刊本が出版・入手済みの他の資料と比べて手間がかかり、さらに他者の議論の引用と批判を繰り返す注釈書の特性もあり、その読解と分析には時間がかかっている。しかし、本研究以前にもテキストの起こしを行なってきており、本研究の遂行に必要な範囲では問題ない。なお、『医学典範』注釈書の1点については新たに続刊がイランで出版されたという情報が得られた。これが入手できれば作業は多少容易になるだろう。 昨年度の研究成果は論文にまとめて、一部は学会誌に、一部は大学紀要に投稿し、全て刊行済みか刊行決定済みである。また、本研究と関連のある文献の翻訳を大学紀要に投稿し、一部刊行済み、一部刊行予定である。
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今後の研究の推進方策 |
今年度もまた『医学典範』の注釈書を中心的な資料として、『医学典範』における解剖学的記述の解釈と、それら注釈書の作者による解剖学的記述の読解・分析を継続して行なう。昨年度までは主に解剖学的記述に注目して、医学者たちによる諸器官そのものの理解を調査してきたが、今年度は視野を広げて、人間の身体に認められた諸能力の理解を読み解いていく。これは、ガレノス以来の解剖研究が用途という概念を軸として行なわれているからである。用途は能力・機能という対概念と密接に関係しているので、イスラーム世界の医学者たちによる用途概念の扱いを解明するため、ひいては彼らによる解剖研究の扱いを解明するために、能力・機能の解明が不可欠である。能力・機能という対概念自体は研究者の関心を集めてきた領域であるが、解剖との関連ではあまり注目されておらず、本研究による調査は大きな意義をもつと考えられる。 資料の入手状況については、本研究で参照予定の『医学典範』注釈書も、その他医学書もおよそ入手済みであるため、大規模な資料収集は予定していない。ただし、大量のアラビア語写本を所蔵するトルコの図書館がウェブ上で写本を公開しているので、現時点で未公開の『医学典範』注釈書が公開された場合には国内から入手を試みるつもりである。 昨年度から継続している調査のうち、まず器官の用途と機能の関係に関する調査をさらに進めた論文の発表、また医学者たちが解剖学的記述において重視した事柄に焦点を当てた口頭発表を予定している。今年度は最終年度であるため、『医学典範』注釈者の見解についてのこれまでの調査内容から、解剖のみならず、用途および能力・機能という概念に関する彼らの解釈と説明を考察し、そこから彼らの解剖学理解を明らかにして、論文にまとめて発表する。この研究により、イスラーム世界における解剖の扱いについて改めて評価を与えることができるだろう。
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