研究課題/領域番号 |
22K13095
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研究種目 |
若手研究
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配分区分 | 基金 |
審査区分 |
小区分02040:ヨーロッパ文学関連
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研究機関 | 立命館大学 |
研究代表者 |
横田 祐美子 立命館大学, 衣笠総合研究機構, 助教 (30844170)
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研究期間 (年度) |
2022-04-01 – 2025-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
2,210千円 (直接経費: 1,700千円、間接経費: 510千円)
2024年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2023年度: 520千円 (直接経費: 400千円、間接経費: 120千円)
2022年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
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キーワード | 20世紀フランス思想 / 文学と哲学の交差 / 現象学 / フェミニスト現象学 / ボーヴォワール / ジョルジュ・バタイユ / リュス・イリガライ / フランス現象学 / 脱構築 |
研究開始時の研究の概要 |
本研究は、ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりとしながら、モーリス・ブランショ、モーリス・メルロ=ポンティ、エマニュエル・レヴィナス、ジャック・デリダ、ジャン=リュック・ナンシーら20世紀フランスの思想家たちにおいて、文学と哲学の交差がなぜ/いかにして生じたのかを、概念的思考に対する批判とその乗り越え、文学言語やポエジーの可能性といった観点から包括的に捉え直すものである。
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研究実績の概要 |
本研究の目的は、ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりとしながら、現象学や脱構築思想として位置づけられた20世紀フランスの様々な思想家において文学と哲学の交差がなぜ/いかにして生じたのかを、概念的思考に対する批判とその乗り越え、文学言語の可能性という観点から包括的に捉え直すことである。 2023年度は本研究計画調書に記載した研究B「現象学と文学」をテーマに研究を遂行した。具体的には、「事象そのものへ」をスローガンとする現象学的思考を展開してきた思想家たちが、当初は現象学で扱う事象を論じる際に文学的な言語や表現の必要性を感じていなかったにもかかわらず、後年、文学言語に目を向けるようになったのはいかなる契機においてか、いかにしてそれが必要とされたのかを検討した。 研究計画調書の作成段階ではメルロ=ポンティならびにレヴィナスを主題的に取り上げる予定であったが、研究成果発表に際しては彼らと同時代に活躍したボーヴォワールにとりわけ着目することとなった。ボーヴォワールは著書『第二の性』で当時の女性の生きられた経験を描き出し、女性が生得的に女性「である」のではなく、文化的・社会的状況のなかで事後的に女性「になる」というプロセスがあることをはっきりと示している。ただし、生きられた経験は主体が科学的・理知的・客観的な視点に立って経験できるものではなく、どこかいわく言い難い要素を必然的に含み持っている。そのため、経験そのものに可能なかぎり寄り添うことのできるエクリチュールとは、論理形式ではなく、エッセイやフィクションといった文学形式なのではないかと結論づけた。 本研究をとおして、文学と哲学の交差というテーマが「いかにして伝えるか」や「いかなる媒体を用いるか」といった現代のメディア論的な問題関心へと接続されうる点が示されたように思われる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
2022年度には研究A「文学言語の探究」をおこない、2023年度には研究B「現象学と文学」を遂行した。この間、研究Bで主題的に取り上げる思想家については多少の変更がありながらも、研究計画調書に記載した研究内容の大枠には変更を加えることなく進捗できている。
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今後の研究の推進方策 |
2024年度は本研究の最終年度にあたるため、これまでおこなってきた研究AとBの内容を踏まえたうえで、研究C「脱構築と文学」を遂行し、20世紀フランス思想における文学と哲学の交差についての考察をまとめる予定である。 具体的には、まずデリダの『幾何学の起源』序説に基づき、哲学テクストで目指される言語の一義性と言語の本質的な多義性との比較検討を、文学と哲学の交差という観点から行う。また、『エクリチュールと差異』や『ポジシオン』での記述に沿って、バタイユが論じ、かつ実践した、一義性に収まることのない言語の「横滑り」を、デリダがいかにして脱構築を基礎づける「古名の戦略」として発展させたのかを方法論的側面から解明する。 そして、ナンシーの「注釈」や『要求』に即して、「書き込み」の行為が文学と哲学の交差点となっていることを明らかにし、バタイユの『不可能なもの』でのフレーズや「非‐知」の思考が、ナンシーにとって「書き込み」による文学と哲学の実践におけるひとつの指標とされていたことを明示する。
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