研究課題/領域番号 |
22K20044
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研究種目 |
研究活動スタート支援
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配分区分 | 基金 |
審査区分 |
0103:歴史学、考古学、博物館学およびその関連分野
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研究機関 | 獨協大学 (2023) 東京大学 (2022) |
研究代表者 |
川崎 聡史 獨協大学, 外国語学部, 専任講師 (10963150)
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研究期間 (年度) |
2022-08-31 – 2025-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
2,860千円 (直接経費: 2,200千円、間接経費: 660千円)
2023年度: 1,430千円 (直接経費: 1,100千円、間接経費: 330千円)
2022年度: 1,430千円 (直接経費: 1,100千円、間接経費: 330千円)
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キーワード | ドイツ / 現代史 / 社会運動 / ローカル / ヘッセン州 / 市民社会 / 市民運動 / 地方政治 / 西ドイツ |
研究開始時の研究の概要 |
本研究は、2つの運動類型(公共サービスの不足、および「過激派条令」への抗議)の展開を詳細に分析しつつ、市民が参加機会を追求する運動として再整理し、運動と行政の相互作用から生まれた民主的社会の政治手法と市民生活のあり方を検討する。これにより既存の代表制度に頼らず、自らの生活に関わる問題について直接の参加機会を求める市民運動という、1960年代末以降の現代的な西ドイツ市民社会の構成要素を明らかにする。
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研究実績の概要 |
本研究は、旧西ドイツ(ドイツ連邦共和国)におけるドイツ社会民主党(SPD)と自由民主党(FDP)の連立政権期(1969-1982年)に展開された社会運動と、それに対応する行政の間の相互作用を分析するものである。この時期に行われた多様な社会運動の多くは、市民が持つ政治と社会への参加機会を争点としていた。 2023年度はそうした社会運動の個別事例として、1972年1月に布告された「過激派条令(Radikalenerlass)」に対する抗議運動を扱った。1960年代後半に西ドイツをはじめとする先進国では、学生を中心とした全社会的な異議申し立て運動である68年運動が盛り上がった。68年運動自体は1960年代末までに終息したものの、運動に影響を受けて学生の多くが左傾化した。その後大学を卒業した彼らは、公職を含む多様な社会的領域に進出した。このことを見た政府は、急進左翼の青年が社会の重要な立場を奪取し、過激な社会変革を行うかもしれないという不安に駆られたため、「過激派条令」を布告することで、ドイツ基本法が規定する「自由で民主的な基本秩序」に敵対的な人物を公職から排除することを目指した。 「過激派条令」研究の大きな意義は、自由で民主的な社会が抱えるジレンマに関する考察を深めた点にある。信条の自由が認められる自由民主主義的な社会において、反民主的な政治信条を持つ者が存在することは避けられず、少数である限りそうした者の存在は許容される。しかし、反民主的な人物が民主的な社会を支える公職に就くことがどこまで容認されるかは、その時々の状況に左右され、活発な論争の対象になることがある。「過激派条令」と抗議運動の分析によって、ナチ独裁から立ち直り、60年代以降は社会運動の活発化を経験していた西ドイツの民主主義がどの程度まで盤石であ るとされていたのかに関する歴史的な理解を明らかにした。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
本研究では、「過激派条令」の運用とそれへの抗議運動に関して、ヘッセン州での展開に注目した。1970年代のヘッセン州では、「過激派条令」の運用をめぐって異なる政治勢力同士の激しい対立があった。革新派の大政党であるドイツ社会民主党(SPD)と中道派の自由民主党(FDP)の連立政権、および州首相アルバート・オスヴァルト(SPD)は、「過激派条令」運用に当初は消極的だった。しかし、保守派の野党キリスト教民主同盟(CDU)による激しい政治攻勢と1974年の州議会選挙での敗北によって、1975年以降、オスヴァルト政権は「過激派条令」の運用に踏み切った。 「過激派条令」での主な争点は、私的領域である政治信条について政府が調査・評価することで、それによって公職から特定の人物を排除することがどの程度まで認められるかということだった。また政治や社会への高い参加意識を持つ市民が、場合によっては政府によって脅威とみなされて職業選択を制限されたという点で、政府が市民の参加機会をどの程度まで許容するかも論点となった。とりわけ就職を控えた若者は、合法的な政治活動への参加でさえも職業選択の支障になるかもしれないことに強い不安を感じた。さらに政治信条調査の結果発表に時間がかかることで、本来予定していた時期に就職できなくなり、生涯年収や年金が減少することは、若者が激しい反対運動を組織する大きな原因になった。市民の強い反発を受けたことで、1978年12月に州首相ホルガー・ボェルナーは「過激派条令」運用を停止すると演説した。 このような展開を調査するために2023年9月に渡独し、ベルリンの人道主義連盟連邦事務局、ヴィースバーデンのヘッセン州立中央文書館、フランクフルトの都市史研究所の文書館にて史料調査を行った。さらに調査結果をまとめた論文が学術誌『歴史学研究』の査読を通過し、2024年5月に掲載される予定である。
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今後の研究の推進方策 |
本研究課題では今後も「過激派条令」に関する研究を継続する予定である。これまでの研究では、1970年代の政府による市民個人の政治信条調査の妥当性、および若者が持っていた就職への不安などを中心に分析を進めてきたが、今後は「過激派条令」の歴史的座標を明らかにすることを目指す。とりわけ注目したいのは、ナチ時代の経験を踏まえて「過激派条令」がどのように捉えられていたかである。「過激派条令」を支えていた論理である、反民主的な勢力に民主的な政治活動の権利と自由を認めないという「戦う民主主義」は、ナチ党がヴァイマル時代の民主的制度を悪用して勢力を拡大したことを踏まえた反省に依拠していた。しかし、「過激派条令」の主な対象になっていたのは、ナチ時代にも迫害された共産主義勢力であった。さらに公職志望者の民主性を判断していた職業官吏の中にはナチ時代も同じ職務を遂行している者が少なからずいた。それゆえナチ時代には全く民主的ではなかったこうした職業官吏が、1970年代になって若者の民主性を判断することは問題であるという議論がなされた。こうした議論を考察することで、当時の西ドイツ民主主義に対する同時代人の歴史的理解がさらに明らかになるだろう。 研究遂行のために今年夏も渡独する。ヴィースバーデンのヘッセン州中央文書館、およびダルムシュタットのヘッセン州文書館にて引き続きヘッセン州政府内の議論を調査する。さらに当時のヘッセン州政府の与党だったドイツ社会民主党(SPD)による議論を再構成するために、ボンのフリードリヒ・エーベルト財団社会民主主義文書館、およびその付属文書館を訪問する。加えて「過激派条令」反対運動の史料をハンブルク社会研究所文書館、ミュンヘン労働運動文書館にて収集する。これらの史料を分析した結果を論文としてまとめ、学術誌『ドイツ研究』に投稿する。さらにドイツ現代史学会でも報告を行う予定である。
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