本研究は、寺子屋を村落史という観点から分析したものである。具体的には、天保期の盛岡藩領又重村で三明院昌豊(派修験)が営んでいた寺子屋を、村落社会の秩序や社会的諸関係と関連させながら位置づけようとしたものである。 従来の寺子屋研究は、おもに寺子屋師匠の家文書から分析するという資料分析手法をとっており、村落社会の中に寺子屋を位置づけることがなかなかできていなかった。本研究はこの研究史上の問題を克服するため、寺子屋の師匠文書、筆子文書、双方の資料を収集した。三明院家資料の全点(437点)、三明院が寺子屋を開いていた小笠原家の資料全点(296点)の調査を行うとともに、50名余いた筆子のひとりである竹洞家の資料全点(271点)も調査した。また寺社、共同墓地などの現地調査も行い、村落社会の復元を行った。 筆子は男子51人確認され、半数は又重村に所在する各集落の農家から、また半数は周辺村から通学した。三明院が定めた寺子屋の塾則が、天保期の4点残されていた。塾則によれば、寺子屋内には「学頭」「茶番」「初心頭」という役職が設置され、また朝夕の学習が毎日課されていた。寺子屋は組織化された初等教育機関として機能していたため、筆子は親の農作業から時間的に解放される有力層出身者が多かった。筆子の親は10数名以上の家族員を抱える複合大家族制をとる有力農民が多く、各集落の同族団の長でもあった。また、相給制の又重村で知行所肝入を勤める家でもあった。筆子の家では、三明院が寺子屋を開く前から往来物などを使用して独自に学習しており、「家」経営に根ざした識字要求が寺子屋を成立させた背景にあった。なお、近世後期、村内では経済変動のなかで地主化して村内一の「福者」と言われ、新たに寺院の壇頭になる者も現れており、彼ら地主層も自分の子どもを寺子屋に通わせていた。近世後期、地主制の成長のなかで旧来の村落秩序が動揺するなか、村内の有力農家の親が、嫡子にその身分と職務・経営、すなわち「家」を継承させるため寺子屋に通学させていた実態が、本研究で明らかにされた。
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