研究課題/領域番号 |
23K00293
|
研究種目 |
基盤研究(C)
|
配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分02010:日本文学関連
|
研究機関 | 新潟大学 |
研究代表者 |
中本 真人 新潟大学, 人文社会科学系, 准教授 (30734678)
|
研究期間 (年度) |
2023-04-01 – 2027-03-31
|
研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
|
配分額 *注記 |
4,810千円 (直接経費: 3,700千円、間接経費: 1,110千円)
2026年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2025年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
2024年度: 1,170千円 (直接経費: 900千円、間接経費: 270千円)
2023年度: 1,430千円 (直接経費: 1,100千円、間接経費: 330千円)
|
キーワード | 才男 / 散楽 / 猿楽 / 芸能 / 摂関期 / 日本音楽史 / 中世文学 / 説話文学 / 神楽 / 芸能史 / 日本文学 |
研究開始時の研究の概要 |
研究代表者は、これまで文献史料に基づく宮廷の御神楽の基礎的研究を重ねてきた。本研究では、新たに猿楽との関連を視野に収めながら、中世神楽および才男の実態を考察する。 本研究では、第一に部類記の基礎的調査を実施し、御神楽研究の視点から部類記と逸文の内容を体系的に整理する。その成果の上に立って、現存の古記録と逸文を広く活用することによって、中世の内侍所御神楽、諸社の神楽に関する基礎的研究を行う。また、中世の春日社摂社水屋社では水屋神楽能が行われており、春日社の南都禰宜衆が乱舞を演じていた。この乱舞は、内侍所御神楽の才男でも行われていることから、両者の影響関係も明らかにする。
|
研究実績の概要 |
1年目にあたる当該年度は「摂関期の御神楽における才男と散楽」(新潟大学人文学部『人文科学研究』153輯、2023年11月)などの論文を発表した。 御神楽の才男は、御神楽で「韓神」まで終わったあとに、人長によって召し出される者のことである。一般には、散楽や物真似などの滑稽な芸を演じたと説明される。院政期には、才男の中で散楽が盛んに行われたようであり、その内容は『宇治拾遺物語』巻五「陪従家綱兄弟互に謀りたる事」からも具体的に知ることができる。12世紀に書写されたといわれる鍋島家本『東遊歌神楽歌』「神楽歌次第」には、才男の中で散楽に堪能な者が召されたと記される。その一方で摂関期の御神楽をみると、才男の中で散楽が行われたという記事はない。そこで上記の論考では、摂関期の古記録を通して、御神楽の才男の実態を明らかにした。 この時期の賀茂臨時祭の還立の御神楽では、才男に召し出されるのは名門の公達が中心で、自身が高い技量を有する才芸を即興的に披露した。また『うつほ物語』によると、言語遊戯を交えた即興的な物真似なども披露されたらしい。陪従による散楽が披露されるようになるのは院政期以降であり、それまでは陪従も散楽を行うようなことはなかったのである。この摂関期の才男が名門の公達を中心としたのに対して、院政期の才男は下級の受領が活躍した。才男の中心となる階級の変化も、才男の芸の質に影響したと考えられる。 また摂関期の御神楽では、才男が終わると神楽歌が奏されずに、纒頭と禄の下賜などで終了する場合もあった。御神楽を描く物語には、才男が御神楽の中ではなく、終了後に行われたとする記述もみられる。従来の御神楽の研究では、楽譜や有職故実書にみられる次第に基づいて、才男も論じられることが多かった。摂関期の才男の実態をみると、それとは大きく異なる儀礼の形式が確認された。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
すでに発表の論考に加えて、すでに「御神楽における人長・才男と倭舞」(藝能学会『年刊藝能』30号、印刷中)が準備されている。 折口信夫は、芸能史の視点から人長と才男の関係に早くより注目した。その著作「翁の発生」では「人長に対する才の男の位置は、もどき」であると指摘している。また池田弥三郎は、師説を継承しつつ「才男の中から、人長が出て来た道筋を考えるべき」と述べている。ただし、いずれも文献に基づく具体的な実証には及んでいない。御神楽における人長と才男の関係については、以後も議論があまり深まらずにきた。 平安期書写の神楽譜によると、採物の曲のあとに倭舞が行われた。この事実を古記録から確認することはできないものの、賀茂臨時祭の還立の御神楽では、解斎舞である倭舞によって、奉仕者が神事から解放される必要があったと考えられる。摂関期までの御神楽の才男に舞が行われるのは、才男のルーツが倭舞であったからであろう。それも次第に舞の要素は失われて、やがて即興的な言語遊戯や物真似を披露する場となった。さらに堀河朝になると、陪従による散楽が行われるようになったのである。 また鎮魂祭にみられる倭舞は、青摺の装束で、榊を持って舞われた。ここから御神楽の人長は、倭舞の舞人をルーツとしたことがうかがえる。倭舞は大勢の舞人による芸能であったが、御神楽に取り込まれると、人長ひとりに舞人の要素が集約されていったのである。大嘗会の清暑堂御神楽に人長がいなかったのは、大嘗会の中で倭舞が行われるために、解斎舞が必要とされなかったからではないかと推測した。 また次年度には、上記の論考を発展させた論考と口頭発表を準備している。
|
今後の研究の推進方策 |
今後は「内侍所御神楽における才男と散楽」(仮題)の口頭発表と、論文執筆を予定している。 『宇治拾遺物語』巻五―五「陪従家綱行綱兄弟互ニ謀タル事」は、内侍所御神楽、賀茂臨時祭の還立の御神楽の才男の散楽(猿楽)を伝える説話としてよく知られる。陪従の藤原家綱・行綱兄弟が、互いに散楽の趣向を相談しつつも出し抜き合うところに眼目がある。院政期にまとめられた『江家次第』によると、内侍所御神楽では盃酌のあと、人長によって才男が召し出され、散楽が行われたとされる。しかし堀河朝までの古記録には、内侍所御神楽において才男と散楽が行われたとする記事が確認できない。 10世紀前半には才男が行われていた還立の御神楽では、摂関期はまだ散楽が行われておらず、寛治7年より散楽が確認できるようになる。一方、内侍所御神楽については、成立から百年以上にわたって才男が確認できず、もちろん散楽も披露されていない。それが鳥羽朝になると才男とともに散楽も、内侍所御神楽の中で披露されるようになった。 堀河天皇は、内侍所御神楽で笛や和琴を奏したり、神楽歌をうたわせたりするなど、自身の希望を次第に反映させていた。古記録には確認できないものの、堀河天皇の意向によって内侍所御神楽に才男が取り入れられ、散楽も行われるようになっていたのではないか。 『宇治拾遺物語』「陪従家綱行綱兄弟互ニ謀タル事」は、本来才男が行われなかった内侍所御神楽において、堀河天皇の命によって才男と散楽が盛んに披露されるようになった時期の話と考えられる。同書成立の時期には、すでに内侍所御神楽は衰微し、才男の芸も簡略化されていた。この説話は「末代の賢王」と称えられた堀河天皇の時代に、陪従による散楽が盛んだった故実を伝えようとしたものではないか。 以上の内容を、次年度には報告する計画である。
|