研究課題/領域番号 |
23K00453
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分02050:文学一般関連
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研究機関 | 宇都宮大学 |
研究代表者 |
丁 貴連 宇都宮大学, 国際学部, 教授 (80312859)
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研究期間 (年度) |
2023-04-01 – 2027-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
4,290千円 (直接経費: 3,300千円、間接経費: 990千円)
2026年度: 780千円 (直接経費: 600千円、間接経費: 180千円)
2025年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2024年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
2023年度: 1,430千円 (直接経費: 1,100千円、間接経費: 330千円)
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キーワード | 有島武郎 / 朝鮮 / 反国家主義 / 無政府主義 / 金子文子 / 朴烈 / 忠清北道世宗市芙江面 / 何がわたしをこうさせたか / 朝鮮観 / アジアをめぐる言説 / アメリカ留学 |
研究開始時の研究の概要 |
かつて栗田博美は「有島武郎におけるアジアの欠落」(1999)を指摘し、有島が欠落させていたものは、現在の我々も欠落させている問題に他ならないと、アジア軽視の有島研究に修正を迫った。しかし残念ながら、その問いへの答えは綾目広治の「アジアをめぐる言説・アジアからの視線と有島武郎」(2003)くらいしかなく、しかもアジアと有島の関連は中国の魯迅との関係からしか窺い知ることができない内容になっている。本研究では、中国との関係だけでは掬い上げられなかった有島における「アジアの欠落」という問題を、それまで蔑ろにされていた韓国朝鮮との関係から捉え直し、アジアへの関心が欠けていると指摘される有島像を問い直す。
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研究実績の概要 |
本研究目的は、日本ないし中国との関係だけでは掬い上げられなかった有島武郎における「アジアの欠落」という課題を、これまで注目されてこなかった有島と交流の深かった活動家たち(①朝鮮からの留学生②アナーキストの朴烈と金子文子③中浜哲らアナーキスト仲間たち)との関係から捉え直し、「アジアの欠落」が指摘される従来の有島像を問い直すことである。 研究初年度の2023年度は、有島と交流のあった朝鮮人と朝鮮と関係の深かった日本人、そして有島と心情を共にしたアナーキスト仲間達との関係から、有島が韓国朝鮮をどのように捉えていたのかを明らかにすることによって、有島における「アジアの欠落」は国家に対する批判につながっていたことを浮き彫りにすることができた。特に、今年度は有島と関係のあった人物として、天皇暗殺を企てたとして死刑判決を受けた朴烈と金子文子の裁判記録(再審準備会編『金子文子・朴烈裁判記録』黒色戦線社、1977)、二人が創刊した機関紙『黒濤』『太い鮮人』『現社会』、文子の書簡、文子の手記『何が私をこうさせたか―獄中手記』(1931)、『金子文子歌集』(1976)など一次資料を精読分析した。 その結果、これまで直接の交流は確認できないとされてきた有島と朴烈夫婦、そしてその仲間たちとの間に直接の交流があったことを確認できたことは本研究を進めていく上で大きな励みとなった。中でも、有島が文子に「自伝を書く」ように進めていた最有力候補であろうということを浮き彫りにしたことはいくら強調してもし過ぎることはないと思う。有島は、文子が検束された時にはすでにこの世の人ではなかったが、文子は獄中で手記『何がわたしをこうさせたか』を完成させていた。なぜ有島は金子文子に自叙伝を書くように勧めたのか。その理由を明らかにすることは、有島武郎におけるアジアの欠落という問題を考えていく上で重要な手掛かりとなると確信した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
今年度の当初の研究計画は、有島武郎が反国家主義、無政府主義となっていった思想的背景を明らかにすることであった。その目的を果たすために、サバティカルを利用して後期の半年間をハーバード大学に滞在し、有島にとって思想的転換点となった1900年代初頭のハーバード大学とその時代に関する調査を行なう予定であった。 ところが、制度上の問題等でサバティカルの取得が認められず、2025年度に行う予定だった「韓国朝鮮人および朝鮮と深く関わった活動家たちとの交流関係に関する調査」へと研究計画の変更を余儀なくされた。以後、研究課題の変更に伴うロースを挽回すべく、夏休みを返上して文献調査に取り組んだ。その結果、取り上げる予定の日本と朝鮮の活動家たちの一次資料と先行研究など関連資料に関する調査及び分析を後期中に終えることができただけではなく、金子文子が子供時代を過ごした芙江面(忠清北道世宗市芙江面)と彼女の墓のある朴烈義士記念館(韓国慶尚北道聞慶市)をフィル―ドワーク(2024年3月5日~14日)することができた。 その成果は大きく、特に1912年から19年まで芙江で過ごした7年余の時間が、金子文子の人生にとって大きな転換点になったと確信した。文子は1919年日本に帰国後、アナーキストとなったが、朝鮮で目撃した3・1独立運動はアナーキストとしての文子の思想形成に大きな影響を及ぼした。そのことを文子の手記『何がわたしをこうさせたか』から読み取れたのは、本研究を進めていく上で大きな励みとなった。フィールドワークの成果の一部は朴烈義士記念館の学芸員の計らいで発表の機会を得られたが、テーマ変更などによって研究に充てる十分な時間が確保できず、学会発表と論文執筆は次年度に回すことになった。サバティカルを取得できなかった憾みは大きいが、次年度はその経験を生かしながら研究に励みたい。
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今後の研究の推進方策 |
有島武郎は人道主義者であり、思想的には無政府主義を信奉していたことが知られている。それ故に明治維新以来の日本政府の帝国主義的な政策に対して一貫して批判的だった。当時の知識人としては異質で、朝鮮に対しても彼らとは異なった認識を持っていた。ではなぜ、有島はそのような存在となったのか。今後は、本研究の核となる有島の国家観がいつ、どのように形成されていったのか、その思想的背景を、とりわけ米国留学中に出会った在米社会主義者金子喜一との交流から明らかにする。そのために、2024年度は夏季休み(2024年8月10日~9月30日)と春季休み(2025年2月10日~3月30日)を利用して3ヶ月ほどハーバード大学に滞在し、同大学に在籍していた金子喜一を通して、有島が反国家主義、無政府主義となっていく過程を浮き彫りにする。 その成果を、まず始めに、2023年度に行なった朴烈・金子文子とその仲間たちを中心とする1920年代初頭の日本のアナーキストたちの活動と連動していることを検証し、金子文子の思想形成に有島武郎の影響があることを明らかにする。次に、これまで予審判事に促されて執筆したと考えられている金子文子の自伝『何がわたしをこうさせたか』の構想の時期に有島武郎が深く関わっていたことを明らかにするために、金子文子のテキストを社会的歴史的文化的コンテキストの中で再読する。三つ目に、朝鮮に対する明確な発言を控えているにもかかわらず、有島が朝鮮の知識人たちに広くかつ深く受け入れ、死後もなお有島の文学と思想が文壇を挙げて受容されていた背景を、当時の日本社会に蔓延るアジア認識と比較考察し、有島の朝鮮認識を浮き彫りにする。 以上の論考については日本や韓国、アメリカなどの学会で発表し、それらを可能な限りに研究論文としてまとめ上げ、順次学会誌に投稿する。
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