研究課題/領域番号 |
23K00819
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分03020:日本史関連
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研究機関 | 東京都立大学 |
研究代表者 |
谷口 央 東京都立大学, 人文科学研究科, 教授 (90526435)
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研究期間 (年度) |
2023-04-01 – 2027-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
1,300千円 (直接経費: 1,000千円、間接経費: 300千円)
2026年度: 390千円 (直接経費: 300千円、間接経費: 90千円)
2025年度: 260千円 (直接経費: 200千円、間接経費: 60千円)
2024年度: 260千円 (直接経費: 200千円、間接経費: 60千円)
2023年度: 390千円 (直接経費: 300千円、間接経費: 90千円)
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キーワード | 太閤検地 |
研究開始時の研究の概要 |
本研究では、ⅰ織田検地、ⅱ天正17年以前検地、ⅲ天正18年以降検地、ⅳ文禄・慶長期検地の時期区分と、①直轄検地、②取立大名検地、③外様大名検地の検地主体区分を行い、時期・主体別の個別検地目的を、検地帳記載の名請人を中心に面積・石高も目配せした上で理解すると共に、各目的に応じた検地帳の特性を提示する。本研究では、上記時期・区分枠が検討可能な畿内及びその近国を中心に検討を行なうが、その際には、前後の時代との比較対象を念頭に置いた分析を進める。以上の分析を通じて、太閤検地総体としての歴史的意義を改めて理解することを目標とする。
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研究実績の概要 |
太閤検地帳に採用される記載形式は、耕作地別の耕地面積に加え、年貢納入者と考えられる名請人、等級設定があり、またこれに伴い石高設定が行われる形が一般的である。この記載形式は、以降の近世社会に実施された検地により作成された検地帳においても一般的な形式として採用されている。 ところが、この形式は織田信長家臣であった羽柴秀吉が天正8年(1580)に実施した播磨国検地による検地形式ともほぼ一致するものの、秀吉と同時期に同じく織田信長家臣によって実施された際の検地帳および、検地実施時に作成された検地関連史料に採用される記載形式とは一致しない。つまり、織田信長家臣によって採用された複数の検地形式の中から、後に全国統一を進めた秀吉による方式がその後の検地帳形式として全国化していった可能性が見られる。 そのことを裏付けるように、秀吉以外の検地奉行が実施した地域である越前国では、同検地の奉行であった柴田勝家による検地以来検地帳が作成されておらず、他国と異なる形式の採用が続いたことが知られる。一方、明智光秀が検地奉行であった丹波国では、天正8年検地では、反銭帳等の年貢別帳面であったものが、天正期以降の検地帳においては、いわゆる秀吉方式の検地形式へと収斂されていく。そして、当初無かった石高の設定も進められていくことになる。このように、秀吉形式以外の形式は残る場合と淘汰されていく場合がある。 以上から、検地帳記載形式の実態を確認するため、織田信長による検地として、秀吉が奉行として実施した播磨国と、秀吉以外が検地奉行となり、その形式が後に秀吉方式へと変化した丹波国を対象として、織田検地から太閤検地に至る状況異同を追求するべく、その史料収集・研究史把握に努めた。併せて、織田信長本国とも言うべき尾張国に遺される信長死直後の天正10年(1582)9月に作成された万徳寺年貢帳も加えて、一部分析も進めている。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
天正8年(1580)および翌年に丹波国にて明智光秀によって作成された検地帳、天正15年(1587)・文禄3年(1594)~5年に作成された現在の亀岡市内に遺される検地帳は全て原本調査を行い、写真撮影を終えた。なかでも、天正15年分については翻刻作業を終えることができた。そこでは、名請人名称と保有耕作地面積と、それら耕作地の等級の傾向把握と石高設定状況理解を進めるべく、分析作業を進めている。また、明智光秀検地については既に飛鳥井拓氏による詳細な分析があることから、この理解を進めると共に、関連史料収集も進めた。 播磨国における織田家臣羽柴秀吉による検地は、前田徹氏により写真も含め詳細な史料紹介が見られる。そのため、原本調査を行う前に、発表写真によって確認される記載形式の確認を進めている。播磨国においても丹波国同様に、そこに現れる名請人名称の傾向と保有耕作地との関係および、それら耕作地の等級に注目した分析を進めている。なお、原本調査は本園度に予定している。 これら分析作業に加えて、越前国も含めた織田家臣による天正年間検地全体の傾向把握を行い、それに対する信長本国である尾張国万徳寺年貢帳に見る、荘園制下における年貢等の単位となる段銭・職による年貢区分状況を比較検討した。その結果、織田信長検地は織田家全体としての太閤検地のような形式的な統一は無く、また、現状の年貢高把握が主であり、太閤検地に見るような石高設定を目的とするものでは無かった可能性を持つに至っている。
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今後の研究の推進方策 |
今年度は、織田検地全体を通じての実態理解・認識と、個別事例としては、これがどのような形で太閤検地へと引き継がれることになったのかを確認する。具体的には、織田検地による実施目標が太閤検地になりどのように変化を遂げたのか、そして、その結果、その目的貫徹のために検地帳記載形式はどのように策定されていったのかを検地帳の記載形式から問う。以上の分析により、太閤検地の最初の段階の目的と、それを受けての検地帳記載形式理解を明らかにすることを今年度の目標とする。具体的な対象地は、丹波・播磨両国が中心となるが、同じく織田家臣による検地が実施された摂津国・越前国も比較対象地として確認を進めていく。 併せて、次年度以降も含めての分析作業ともなるが、太閤検地に見られる石高設定とその推移理解も進めていきたい。こちらについて上記丹波国・播磨国についても分析するが、地域では無く一領主としての変遷も確認するため、徳川氏について筆者の是迄に行ってきた検地研究を見直すこととする。その中での検討は、徳川氏は当初三河国時代は年貢高と考えられる知行安堵を実施し、その後、全領検地である五カ国総検地の際は表高を用いた年貢高把握を進めるが、天正18年(1590)の関東移封後は石高設定へと変化する。その変質における家内部からの影響、旧北条氏をはじめとしたかつてあった在地における支配方法の影響や在地ならでのは慣習による影響、豊臣政権自体からの影響について理解を進めていくこととする。
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