研究課題/領域番号 |
23K00855
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研究種目 |
基盤研究(C)
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配分区分 | 基金 |
応募区分 | 一般 |
審査区分 |
小区分03020:日本史関連
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研究機関 | 関西大学 |
研究代表者 |
西本 昌弘 関西大学, 文学部, 教授 (00192691)
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研究期間 (年度) |
2023-04-01 – 2026-03-31
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研究課題ステータス |
交付 (2023年度)
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配分額 *注記 |
2,470千円 (直接経費: 1,900千円、間接経費: 570千円)
2025年度: 650千円 (直接経費: 500千円、間接経費: 150千円)
2024年度: 780千円 (直接経費: 600千円、間接経費: 180千円)
2023年度: 1,040千円 (直接経費: 800千円、間接経費: 240千円)
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キーワード | 屯倉 / 小墾田屯倉 / 小墾田宮 / 小墾田寺 / 豊浦屯倉 / 難波屯倉 / 皇后宮 / ミヤケ / 郡家 / 古代国家 / 全国支配体制 |
研究開始時の研究の概要 |
本研究ではまず、蘇我氏によるミヤケ管理について、飛鳥・難波・吉備地域のミヤケに焦点を絞って検討する。次に、7世紀中葉までのミヤケが、その後、郡家(郡衙)となって発展した実例を列島の重要地域(北部九州・濃尾・関東など)に広げて探し求める作業を行う。郡家の位置を見極めるためには歴史地理学の研究成果を吸収する必要がある。要するに、文献史学の古代史学に加えて、考古学、歴史地理学などの研究成果を参照して、飛鳥・難波地域を中心に、列島各地において、ヤマト政権の地方支配の拠点たるミヤケがどのようにして郡家に転生していったのかを、6世紀から9世紀までを通して明らかにしようとするものである。
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研究実績の概要 |
研究初年度にあたりデータ整理と印刷のための備品を整え、研究環境を整備した。 研究成果としては第1に、6世紀前半の安閑朝に設置された小墾田屯倉・桜井屯倉・難波屯倉のうち、小墾田屯倉と桜井屯倉が蘇我稲目の小墾田宅・向原宅となり、それが稲目妻の堅塩媛や稲目孫の炊屋媛(推古天皇)の所有を経て、小墾田宮・豊浦宮として飛鳥最初の王宮として整備され、やがて最初の尼寺たる小墾田寺・豊浦寺に改造されていくことを明らかにした。屯倉が豪族の第宅となり、その後、王宮や寺院に転化していったことになる。 第2に、子代屯倉とも呼ばれた難波屯倉は7世紀中葉に子代離宮に改造され、改新政府の一拠点として利用されたが、その所在地である難波狭屋部邑の位置について検討した。私はかつて狭屋部邑(讃楊郷)をのちの西成郡三番村(現在の大阪市北区中津)に比定した。この中津説を疑問視する意見もあるが、中津周辺では飛鳥・奈良時代に水田耕作地として開発されたことを示す遺物・遺跡が検出されているので、この付近に難波屯倉(子代屯倉)を想定するのはそれほど的外れなことではないと思う。ここでも屯倉から離宮に改変されたことが確認できる。 第3に、飛鳥浄御原宮の内裏中枢部に皇后ウノ皇女が住んだ皇后宮が存在したことを論じた。奈良時代中頃までは皇后は天皇の住む王宮とは別に独自の宮(皇后宮)を営んでいたとするのが定説であったが、王宮外にキサキの宮を有したのは豪族出身のキサキに限定すべきで、皇族・王族出身のキサキは王宮内にキサキの宮を営んだとみてよいとみた。豪族が屯倉に影響力を及ぼしたのは、自家出身のキサキの経済的基盤とするためであった可能性があり、屯倉の変遷の背景に豪族と王家との婚姻があったことを示唆している。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
屯倉の変遷について検討をはじめたが、小墾田屯倉・豊浦屯倉・難波屯倉など、豪族の影響下に置かれたのちに、やがて王宮・離宮や寺院に転化していく屯倉を俎上に上げて考察を加えたため、6~7世紀における王家と豪族の関係を見極めることが課題として浮上してきた。また、屯倉は地方官衙たる郡家に発展していくだけではなく、王宮・離宮や寺院に発展していく屯倉も存在した可能性が出てきた。これらの視点については、さらに掘り下げを行った上で、後身施設によって屯倉をいくつかのタイプに分類することができないかどうか考えてみたい。
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今後の研究の推進方策 |
本研究が主たる課題としていた群家に転化した屯倉を検討するためには、吉備の児島屯倉や白猪屯倉をはじめとして、発掘調査によって系譜関係が解明されつつある屯倉を取り上げる必要がある。今年度は岡山県などへの出張調査を行って、現地の状況や出土遺物などを確認したので、次年度以降は、こうした方面の検討をさらに進めていきたい。
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