研究概要 |
1.大和盆地に活動していた古代豪族の名前を、平安中期以前についてカードをとり、それをコンピュータで処理したところ、次のような結果が得られた。まず、データは平安中期までを収集したわけであるから、その当時までの大和国内の豪族名をあつめたことになる。大和国内では 渡来系の秦氏がもっとも多いデータを残しており、かつて、大和盆地に君臨していた、物部,大伴,区勢,平群といった五〜六世紀代の家族は、在地での地名と関連するような史料にはごくまれにしか名前をのこさなくなっている。このことは、これら五-六世紀の大豪族が中央貴族として八世紀以後は在地との関係をきわめて微弱にしたものであることをものがたっている。また秦氏のような渡来氏族は、上記の大豪族が中央貴族として上昇転化した後ち、大和盆地冬地域に分散発展したものではないかと考えられる。しかし、平群郡にみえる平群氏、葛下郡にみえる葛木氏など、七世紀以前からの根拠地にデータを残しているものもあり、この史料が七世紀以前における古代豪族のあり方を反映した一面もあることを確認した。 2.モデルケースとして行った大和盆地、添上郡の場合は、従来は五世紀頃の和尓氏の本処地であったとされていたところである。ここでは、大春日、大宅、和尓部等の和尓系氏族の名称がみえる。大縮尺千分の一の地形図を作成した地域は古代の春日郷の一部と考えられ、春日県主(書紀)大宅氏がいたことが文献史料上確認されるか、後者は根拠地は大宅郷と考えられるから、当該地は春日氏の根拠地としてみてよく、護国神社境内古墳碑などは、風氏の墳墓群とみてさしつかえないと考えられ、また地形からみて岩井川水素を支配したことが地形図から読みとることができる。このように添上郡内でも一括して和尓氏が支配していたというだけでなく、文献,地形図,古墳の分布をつきあわせることによって、小支族のあり方を復元できるようになった。
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