研究概要 |
1.まず形式的な報告から始めれば, 三年間の成果は, 単行本(邦文5冊, 英文1冊, 独文1冊), 論文(邦文3本, 英文13本, 独文1本)の形で既に活字となっている(詳しくは添付の「研究成果報告書」参照. )なお, 今年中に, さらに引続き口頭および出版物の形で内外の学界にその成果を発表する予定. 2.次により実質的な報告に移る(詳しくは, 同「報告書」参照. )我々が対象とした1978〜84年の時期に, ソ連の対日イメージは変遷した. 78年は, 「反覇権」条項を含む日中平和条約締結に反発して, ソ連の対日・イメージが極度に悪化した. ソ連のメディアは, 「ワシントン=東京=北京」の反ソ包囲網の形成に日本が加担したとして, 日本を弾交した. 同年から翌79年に判明した北方領土上へのソ連軍の再配備は, 日本人に反ソ感情を一気に高めた. しかし, 78-9年をどん底として, ソ連の対日イメージはその後暫らくの間回復基調に向かった. クレムリンには, 対日・パセプションを悪化させて更に日本の対ソ認識の悪化をエスカレートすることの逆効果性を悟った. しかし, 81年鈴木内閣が「北方領土の日」を設定し, 同首相自ら北方領土視察を行ない, 82年中曽根首相の「不沈空母」や「三海峡封鎖」発言らによって, ソ連は再び対日イメージを悪化させ, 日本の「軍国主義化」を非難し始めた. 他方, 同じく82年頃から中国が自主外交路線をとるようになり, モスクワは, 「ワシントン=東京=ソウル」の反ソ同盟を非難するようになった. 日本の対ソ認識も83年の大韓航空機撃墜事件で悪化した. 以上の経過から, 日ソ相互イメージは, (1)米ソ, 中ソ, 日米, 日中関係の変化, (2)日ソ二国関係, (3)日ソ両国政府の政策, (4)その他の偶発事件の影響をうけて, 一定の幅の中で微妙に揺れ動くことが判る.
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