「史記」が戦国時代の歴史を記述するにあたって、その材料の多くを「戦国策」のもととなった資料に抑いでいたことは、両書の比較研究を通じて知られる。しかし原「戦国策」の資料が、みな特定の事件を記述しようとした歴史的文件であったかどうかについては大いに疑問がある。 「戦国策」の内容の内、我々がよく知っている章は、確かに特定の歴史的事件にかかわるものが多いのではあるが、「戦国策」の内容の形態的比較によって、そうした章はみな、この書物の中では最も降る時期に形成された物語りだと知られる。逆に最も古い形態だと推定される章の中では、その事件があった時代も場所も、人物名すら漠然としていることが多い。こうした所から、「戦国策」の最も基本的な性格は、歴史的な記録というよりも、ある雄弁家が、一つの設定された政治的・軍事的困難をいかに舌先三寸で切りぬけるかを楽しむ、口頭文芸としての要素が強かったものと推定される。 戦国時代末期から前漢時代にかけて、このような雄弁家たちの弁舌の技術のみごとさを書き記した様々な記録が存在し、それらはやがて前漢末年に劉向の手によって現行本の「戦国策」に纒め上げられた。劉向はそうした記録を国別に分け、時代順に配列した。現行の「戦国策」が歴史書としての外見を持っているのは、劉向の整理の結果なのである。「戦国策」の本来の性格は、雄弁家たちの弁舌の巧みさを誇示してみせるものであり、その巧みさとは、一方では、強弁をもまじえた論理使用の巧みさであり、また一方では言葉の華麗さで聴衆を眩惑させようとするものであった。後者の技術は、前漢時代に賦の文学として花開くことになる。
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