研究概要 |
本研究において明らかになったのは以下の諸点である. 1.人口疎開に関する最も早い言及は, 管見の限り「国民防空指導ニ関スル指針」(陸軍省・参謀本部. 1940年)である. 陸軍の方針は, 事前の避難を敗北とみなし, 疎開対象者を防火活動の足手まといとなる「老幼, 病人,一部婦女子」に限定した極めて限定的なものであった. 2.「勧奨」による疎開を決めたのは, 1943年10月15日閣議決定「帝都及重要都市ニ於ケル工場家屋等ノ疎開は人員ノ地方転出ニ関スル件」においてである. 命令による強制疎開方策をとらなかったのは, 国民の戦意喪失を怖れ, 受入体制を整備しようとしなかったためである. 政府は, 疎開は避難ではなく「戦闘配備」だと宣伝した. 3.閣議は, 1943年12月21日「都市疎開実施要綱」を決定し, 東京都・横浜市など12都市において人口疎開を実施することとした. しかし, 人々がこれらの都市から移動したのは, 米空軍の空襲が本格化した1945年3月以降である. 一般的人口疎開は「戦闘配備」ではなく, 単なる子避難として具体化した. 4.一般的人口疎開が容易に進展せず, ほとんど挫折しつつある時, 政府は学童を対象とした疎開の措置要領」(1944年3月9日次官会議決定)により, 学童を対象とした疎開を強力に推進する方針を定めた. 子ども達の移動は, 「蒲団とリュックサック」だけですみ, 受入体制も容易に整備できただけでなく, 彼らが例外なく国家の学校制度を通じて既に組織され, 統合されていたことが, 学童疎開を可能にした最も重要な要素である. この点にこそ, 人口疎開が教育政策の局面で, 避難としてではなく「戦闘配備」として実現した必然性があったのである.
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