研究概要 |
日本の中世社会が、開発所領を基盤とし、その所領の地名を名乗る「名字」の時代であるとするのは、現代の日本中世史学における通説であるが、私は、日本の中世前期、すなわち平安中〜鎌倉時代に関しては、古代以来の「氏」(姓)と、中世的な名字との複合ないし重層の時代であり、かつ中世的名字族の展開の過程で、古代的「氏」(姓)が再生産されている時代であるという考え方を、かねてから主張して来た。 こうした私自身の考え方を、摂津国垂水牧(タルミノマキ)、すなわち現在の大阪府箕面市を中心とした地域に、平安時代の末〜戦国時代にかけて存在していた藤原氏を名乗る領主層及び、佐伯氏その他の氏を名乗る村落住人層の双方について検討し、領主の村落支配,住人相互の村落結合の展開の上で、氏(姓)がどのような役割を果していたか、氏(姓)と名字との重層関係とは具体的にはどういうものであったかを考えていこうとしたのが、今回のテーマである。 このテーマを解決するため、私は、粟米生近隣の名刹である勝尾寺文書(当該地域の関係文書はほとんどすべてここに属している)の検討と、現在も古代条室制の遺構を伝えている粟生村近辺の現地調査を行い、かつ、その研究結果を素材として、将来の研究にむけての史料(資料)集作りにとりくんだ。このうち、文書検討の結果は、別物研究発表欄にあげた「史叢」論文に発表したし、現地調査の成果は、同じく上に掲げた「日本歴史」に発表予定となっている。ただ、時間的制約が大きいため、勝尾寺に関する寺院史的研究や、他の中世領主、中世村落との比較にもとづく、中世史全体への展望というところまでは、至っていない。またの機会に期待するものである。
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