研究概要 |
19世紀末葉のドイツは、工業の飛躍的発展を遂げるべく生産性向上に向けて、労働者の意識変革達成を制度的に保障しようとした。この目標は、1880年代に成立の疾病,災害,廃人・老齢者の各保険法に具体化した。 効率原理に立脚した業績主義的価値観の、労働者への強制的受容という社会保険の意図は、保険組織管理運営への労働者参加を承認して実現されようとした。ビスマルク国家は、この管理運営の自主性を認めつつ、身分秩序に由来するコーポラティヴ道徳を媒介にして、実質的には管理運営に対して権威主義的に介人した。 他方では、社会民主党にとって社会保険は、労働者の自立に不可欠の組織であった。だが、そのことはこの自助組織が、当時の同党の理論を豊かに発展させたことを意味しない。1870年代の社会民主党は、自助組織を通じては経済的社会的に自立不可能な家具工,仕立工,靴工等の手工業労働者から構成されており、同党は彼らの完全な自立を政権獲得後の課題として位置づけた。更に、社会主義者鎮圧法がビスマルク国家の抑圧機能を際立たせた結果、同党は社会保険を労働者懐柔政策として受止め、社会保険本来の意図は見失なわれた。 だが、社会主義者鎮圧法によって政治的に排除された社会民主党にとって、社会保険組織は唯一許された活動の舞台であった。同党は、保険組織の管理運営の自主性をもって政権獲得の一手段と見做し、その管理運営の掌握に乗り出す。しかし、それは社会保険の本来の意図である効率の論理に、同党が組込まれていく過程であった。当時の社会保険をめぐる争点は、業績主義的価値観の受容か否かではなくて、その受容を権威主義的に強制して行うか、それとも任意に自発的に行うかにあった。ここに、ドイツ第二帝政期の国家的統合の特質が示されている。
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