研究概要 |
1.中井の棟梁と棟梁家 江戸初期から中井役所が成立した元禄6年頃、すなわち17世紀代においては、京大工頭中井に組織されていた棟梁のほぼ半数を法隆寺村の者が占め、その数は絶えず50人前後にあった。つまり法隆寺村は中井の棟梁村であった。こうした棟梁家は、婚姻・養子縁組など強いつながりをもっていた。 中井の棟梁を勤める家はほぼ決まっていたようで、村内では今村、塚本、長谷川、安田、西村、岡島、塀内、角井、今奥などの姓をもつ家がいわゆる棟梁家であった 2.村内の大工組 17世紀〜18世紀において法隆寺村内には7〜8組の大工組が組織され、大工組に所属する大工数も150人前後いたことが想定できる。幾内一円の大工組は群別もしくは数が村ごとに1組組織されるのが普通であり、この点でも法隆寺村の特異姓が〓える。ただし19世紀になると平群郡など6郡30ケ村の大工からなる法隆寺組に統合され、当村大工もその中に28人みられるだけになる。 3.大工方株と大工高 法隆寺村は村高2,400石を越す大村で、村内行政は4株に分けられた株分け村落の形態をとっていた。この中に大工たちからなる大工方株が存在し、村高のほぼ4分の1にあたる662石余を有していた。このうちの602石余は大工たちが所有する田畑・屋敷などの石高で、大工高と呼ばれていた。この大工高は大和国内でも圧倒的に多く、国内総大工高の約20%にあたる。 4.今後の課題 法隆寺に所属していた中世の大工・番匠がいかにも近世の棟梁・大工へ変貌していったのか、この点が未解明である。
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