研究概要 |
1825年, オーストラリアのニュー・サウス・ウエルズ総督に対して新しい指令が届き, 全植民地を40マイル四方の郡, 約100平方マイルのハンドレッド, 約25平方マイルのパリッシュ, 1マイル四方のセンションに区分・区画することとなった. この指令は, 1836〜1842年の南オーストラリアを除き, 1850年代までオーストラリアの全植民地で同様に実施されるべきものであったが, 現実には, 自然的・社会的条件や, 総督ないし測量長官の志向・性格, あるいはこれらの重合によって, 各植民地において様々な状況であった. ニュー・サウス・ウエルズ; 郡・ハンドレッド・パリッシュ・セクションともある程度実施されたが, 方格プランは全体としては不成功といってよく, 1855年には断念された. その大きな理由は測量長官ミッチェルが消極的であったことと, 前任者オクスレイの測量・区画が不正確であった点である. タスマニア; 1829年までに郡・ハンドレッド・パリッシュの計画が完了したが, セクションは実施されず, 1834年に測量長官フランクランドは, その理由として地形の複雑さと, 深い森林による測量困難をあげている. 西オーストラリア; 川沿いの狭長な区画が設定されたが, 上記の指令は全く実施されず, 郡もまた計画のみにとどまった. 測量長官ロウは, 1852年に至っても, 方格プランの実施の必要性を述べるのみであったに過ぎない. 南オーストラリア; 郡・ハンドレッドはほとんど完全に実施されたが, パリッシュはなく, また基本区画も初期の組織的植民政策にもとづいた80エーカーを出発点としたために全く異なったサイズとなった. ビクトリア; バーフおよびギップス総督と測量官ホドルの下で, パリッシュを除き方格プランがほぼ完全に実施された. しかも, この状況は, 1851年以後のビクトリア植民地においても大きく変わることなく, 実施され続けた.
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