昨年度に引き続き、南洋における元日本人学校教師7名、引き揚げの生徒の教育にあたった教師1名、元日本人学校生徒35名(小学校22名、バゴ農民道場3名、ミンタル女学院9名、シンガポール日本小学校別科1名)親3名、在外邦人子弟教育協会の設立者・大島正徳の令嬢、毎日新聞記者の計48名に聴き取り調査をし、資料を蒐集した。また教育委員会5ヵ所、当時の受け入れ校10ヵ所を訪問したが、教育委員会では昨年同様、殆ど資料が残存しておらず、受け入れ校では「帰国子女」の入学手続きや卒業の有無等について知ることができたが、更に検討を必要とする。『文部時報』を総覧し、法制度の面から転入学の推移を把握できたのは有益であった。今年度に得られた知見の概要は次の通りである。 1.昭和19(1944)年1月、大東亜省のはからいでフィリピン・ダバオからの生徒68名、マニラ・バギオ・セブからの生徒34名は、戦時下、秘密理に帰国したが、親の進学への強い希望が容れられたものである。殆どの者は各府県の「有名」中学・高等女学校へ進学したが、学費が続かず大部分は中途退学を余儀なくされた。2.この中マニラからの女子生徒5名、バギオからの女子生徒2名は、在外邦人子弟教育協会が設立した東京・市ケ谷の鳳鳴寮に入った。3.これより以前の昭和16(1941)年4月、神戸市に北野寮が開設されたが、第一北野寮にはマニラ・上海からの「帰国子女」が入った。第二北野寮にはインドネシアからの混血児童45名が収容されたが、現地宣撫要員の要請の目的もあった。4.引き揚げ直後、日本人学校の生徒を含め塾的に教育した教師も存在したが引き揚げ者に対する内地の態度は苛酷であった。5.なお、昭和11(1936)年、沖縄に海南中学校が設立され、海外からの「帰国子女」に進学の途を開いたが、この中に南洋からの日本人学校生徒が含まれていたかどうかを含めて、今後更に多角的にこの主題を追及する必要がある。
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