生命の理解は、アリストテレスにおいて画期的な進展を遂げてきた。アリストテレスは「生命を持っているもの」の特有は働きに注目し、生きているとは何らかの働きを持っていることであると考えた。生命を持っているものの働きを生命を持っていないものの運動・変化から区別しているのは、働きの自己完結性である。すなわち、生きているという働きは、働きの対象をそれ自身の内に有している点で、外にある対象を目指し、あるいは外にある目的を目指しての運動・変化とは異なっている。生きているものに固有のこのような働きをアリストテレスはエネルゲイアと呼んだ。新プラトン主義の哲学もこのエネルゲイアの概念をアリストテレスから受け継いでいる。ただし、アリストテレスが、エネルゲイアは身体をともなった魂の働きであって、それ自体として存在することはないと考えたのに対して、新プラトン主義の哲学はエネルゲイアそのものに実体としての存在を認める。すなわち、精神は働くため自己以外の何ものも必要としない、精神の働きはすべて精神の自己認識に還元される、と考えたのである。アウグスティヌスもこのような新プラント主義の考えを基本的には認めている。アウグスティヌスが新プラトン主義と異なるのは精神の働きを身体をともなった人間の働きと考えた点である。すなわち、精神が自己を認識するとはたんに精神の内にある可知的対象を認識することだけを意味するのではない、感覚を通しての認識もすべて精神の自己認識を介して行われる、と考えた点である。このように考えることにより、精神の自己完結性は、アウグスティヌスにおいて、個として人間全体の自己完結性を意味することになる。新プラトン主義の哲学における精神の実体性は、アウグスティヌスにおいて、個としての人格性(ペルソナ)の概念となるのである。自らの内で自らに対して働きかけることのできるもの、それがペルソナである。
|