研究概要 |
中国と関係の深い長崎では,清国人を中心とする条件未済国人の在留取締は万延元年に英国船を対象に判定された「長崎港規則」を基にして、文久二年二月長崎奉行から各国領事に示された「規則書」によって主に入国統制を前提として完成された。この規則を生みだした「長崎港規則」は、従来,英国による自国船の入港規則として対外的影響力は小さいとされてきたが,この評価は明治以降に国際法の理解が進んだ時点で生まれたもので,幕末外交を評価する場合には歴史的過程から考えても,「規則書」の持った実際的な清国人取締効果は否定できない。 こうした長崎における「規則書」を基礎にして、横浜では慶応三年十一月神奈川奉行と各国外交団との間で協議が行われ,「横浜外国人居留地規則」が制定されるが,「万国公法」を盾に条約未済国人の在留を容認させようとする外国勢の大きな影響が及んだのは否定できない。その一方で取締規則と共に判定された毎年の籍牌による条約未済国人登録制度は、在留者の在留状況の幕府(神奈川奉行)への申告であり,また上・中・下等三段階の登録料徴収は,「不都合」を起す可能性の高い下等在留者の放逐を合法的に可能とする指向性を持つものとして考えられる。 幕府の下で統一的な取締規則を制定できないまま明治政府は出発し,維新後、清国との間で「日清修好条規」を締結して双務的領事裁判権を両国は持つことになる。しかし、同条規第九條は領事派遣までは従来通りの取締りを規定、日本側は横浜の規則を基に「在留清国人民籍牌規則」を完成する。その意味では、横浜の取締規則は以後の日本の条約未済国人取締の原型となるものである、再度評価されるべきである。
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