本研究の直接の契機となったのは、筆者の前稿「中世オーストリア法における高級裁判と低級裁判-証明手続の分担をめぐって-」(『熊本法学』52・53(1987))で得られた認識、即ち、筆者長年来のテーマである「ラントにとって有害な人間に対する手続」を中心とした刑事裁判制度と領邦国家の形成・展開との深い関係を、広く南ドイツにおける裁判制度の中で確かめ、更に発展させることにあった。 そこで先ず比較的多く史料が残されているバイエルンについて研究に取りかかった。元来特別手続であった「ラントにとって有害な人間に対する手続」が領邦君主の権力形成活動の中で次第に通常手続化し、これに伴ない、従来その手続には服さなかった定住農民・市民までもが対象となり、これを通して領邦の刑事裁判全体が著しく糺問手続の様相を帯びてきたこと、そしてこれに対する諸身分の反撥が訴訟手続の面において出てきたことについて、ある程度の見通しをもつことができた。 ところが研究を進めるうちに、関連する新たな問題が発生した。というのは、今まで略式の手続で済んでいたのに、特別手続の通常手続化に伴って、形式厳格な手続形態が適用されるに至ったことと関連して、頭から刑事手続・民事手続を分けて論ずることが果たして中世の裁判を正しく理解することになるのかという問題、言い換えれば、中世的手続そのものをどのように考えればよいかの問題について、どうしても、はっきりした認識を持つ必要が出てきた。あたかも近時ユルゲン・ヴァイツェル『裁判共同体と法』(全2巻 1985)という大きなモノグラフィに接してその感を強くした。そこで本研究はさしあたって、中世的裁判の特徴をその判決発見過程を中心に解明する作業に向け、その結果、従来の認識では専ら判決発見人の活動とされていた判決発見に訴訟当時者自身が深く関わっていた点をほぼ明らかにすることができた。
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