研究課題/領域番号 |
63550455
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研究種目 |
一般研究(C)
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配分区分 | 補助金 |
研究分野 |
建築史・建築意匠
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研究機関 | 鹿児島大学 |
研究代表者 |
土田 充義 鹿児島大学, 工学部, 教授 (60037819)
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研究分担者 |
揚村 固 鹿児島大学, 工学部, 助手 (70094117)
小山田 善次郎 鹿児島大学, 工学部, 講師 (00041533)
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研究期間 (年度) |
1988 – 1989
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研究課題ステータス |
完了 (1989年度)
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配分額 *注記 |
1,500千円 (直接経費: 1,500千円)
1989年度: 600千円 (直接経費: 600千円)
1988年度: 900千円 (直接経費: 900千円)
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キーワード | 太閣町割 / 宅地割 / 間口 / 流(ながれ) / 博多街区規模 / 太閤町割 / 街路幅 / 入(いり) / 町割 / 博多街区復元 / 街路 |
研究概要 |
博多は堺と並び中世以来の町人町である。平安末に創建した櫛田神社と中世に入ってまもなく建った日本最初の禅宗寺院聖福寺が相対し、その間に町が成立し、当初は一種の門前町であった。その後幾多の戦乱を経て太閣の町割が天正15年(1497)に行なわれた。その町割は海と陸とを結ぶ南北街道とその両側の宅地からなる筋を4箇通し、その南北の長さを10町とし、博多の町割は「十町四方」ではなく「十町四筋」と推定しえた。中世以来の東西街道筋1箇を加え、5筋で町割の骨格を築き、この5筋を流(ながれ)と称し、博多支配の単位とした。 江戸時代になると元禄3年(1690)の記録や櫛田神社所蔵の宅地割図から、宅地割を部分的に明らかにしうる。大閣町割で南北街路に面して間口を構えていた宅地が十字路の角地では宅地を縦割(南北方向)にして、東西街路に間口を構えることになって互に宅地の拡張を始めた。それは海と陸とを結ぶ南北街路から、城下町福岡と結ぶ東西街路の方に重要さが移行したことを示している。これは博多町人街区を構成する宅地割の変化であり、その変遷過程をたどることができた。 江戸後期(19世紀初)になると南北街路と東西街路で囲まれた街区の東西幅が60間で設計され、間(1間を6尺5寸とする単位)を単位としていた。南北幅はその倍120間に近く、街区は短冊型である。その街区に小路を入れる場合は南北端で、中央の短冊型6街区には入らなく中でも町割の基準線となった市小路筋(呉服町流)には博多の豪商が屋敷を構えていた。間口の広い宅地は後世になると分割が行なわれ、間口が狭くなる傾向へ進む。と同時に町名の境である町界に凹凸が生じ、町が独立し、その集合として流となる。単位としての流が町へ移行したことを意味する。流の全体統治が宅地の分割が契機となって町を単位とする体制へ変化したと考えうる。
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