(1)『純粋理性批判』を「論理的意味論」として解読する作業に従事し、「形式論理原」が、二値原理や排中律を認める現代の実在論的古典論理の部分系としての意味論をもつこと、一方「超越論的理原」は我々の時空的な感性的直観の裏づけを要する可能的経験に制限された反実在論的な直観主義的論理原の意味論を親近性をもつことを明らかにした。 (2)アンチノミ-論では、無限をめぐる集合論上のパラドクス、論理主義のケ-デルの不完全性定理による破諚、ヒルベルトの無矛盾性証明を巡る困難、有限主義の検討といった現代的話題と関連させて、アンチノミ-の意義を論じた。 (3)レ-ヴェンハイム・スコ-レムの定理や入れ換え関数による「指系の不可性」「翻訳の不確定性」を引き受けた上で、外部的(形而上学的)反実在論と内部的実在論を主張するパトナムの所論に見られるように、超越学的観念論と批判的(経験的)実在論とを併せ主張するカントの立場の、現代における検討の余地は十分おることを示した。 (4)フレ-ケとの比較において、カントのアプリオリ-アボステリオリ、分析的ー結合的の区分の、現代における意義を検討した。 (5)我々の可能的経験の枠組である、時間空間を示す日常語「いま」「ここ」「きょう」「きのう」、あるいは、実体を示す指示語「これ」「あれ」などの意味深を吟味した。 (6)カントは、アプリオリ性の徴表を、普遍性と必然性に求めたが、近年展開されたクリプリらの可能世界意味論においては、アプリオリ性と必然性とは、はっきり区別されるべきカテゴリであることが示された。
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