デカルトが心身の実在的な区別に言及する一方、人間精神=実体的形相という説を保持していたことは周知の通りである。同様の見解はトマス・アクィナスによっても表明されている(抽論(1989);なおこの点を確認するために『用語索引』(1990)を作成した)。ただしトマス説とデカルト説は、人間精神を不完全な本質を持つものと見るか完全な本質を持つものと見るかという点で決定的に違う。デカルト説をとる際に生じる、心身の実体的結合の可能性に関する議論については、ライプニッツらを含めて、従来から詳しい研究が行なわれてきた。しかしながら心身の実体的結合の必然性の問題については、近世初頭にアレクサンドロス説・トマス説・アヴェロエス説の間で論争があり、デカルトもそれを承知しているけれども、その詳細が研究されてきたとは言いがたい。十三世紀以来の論点は人間精神の実体としての不完全性の問題にあったからである。アヴェロエス説を論駁するトマス説の立脚点は、可能知性の内在説であり、それは人間の魂における能動知性と可能知性の存在的な同一性の主張を伴うのみならず、離在的な能動知性と存在的に異なる内在的な能動知性の措定を伴う点で全く特異である。このようなトマス説の成立を可能にしたのは、エッセの思想であり、創造の思想である。またそれが質料的個物のイデアを神の精神の中に措定する独自のイデア論の根拠となっている(抽論(1990))。その後十六世紀にはザバレラが『デ・アニマ』第三巻の解釈をめぐってアレクサンドロス説の立場からこの論争に加わっている。しかし十七世紀以降の認識論において、あるいは『デ・アニマ』の解釈において、認識の起源の問題が認識の完成という問題から切り離されたことによって、実体としての魂の不死性の問題や、実践的な認識の要件としての個物認識の問題が論じられることもまたなくなる。トマスの至福論の詳細な研究を必要とする所似である。
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