西洋のバロック期において、伝統的修辞学のただ中から近代的な美学的思考の生成する興味深い場面が、スペインのグラシアンとイタリアのテザウロの著作のうちに見てとられる。 グラシアンの場合、イエズス会の学院で教育にたずさわったところからも推察されるとおり、イエズス会の教育計画に組み込まれていた修辞学の伝統は彼のうちに浸透していた。彼の偉大なところは、そのような修辞学に根ざす概念を用いて、近代美学を先取りするような思想を展開したことである。その概念とは、鋭戯(agudeza)・綺想(concepto)・才知(ingenio)の三つである。この三つは、ともに美に関わるものとして考えられており、しかも修辞学の枠内には収まりきれない対象を扱おうとするものである。さらにグラシアンは、古代に対比して近代の本質を新しいものの追求にあると看破し、近代的な歴史観の形成にも寄与している。ただ彼の思想は古代を忘却のうちに捨て去ろうとするものではなく、古代の記憶の上に近代を位置づけようとする。この立場は確かに微妙なものではあるが、見方によっては、モダン(近代)とポストモダンとの不毛な対立を越えた立場を指し示すものとして、きわめて現代的ともいえるものだ。 テザウロも、おおむねグラシアンと同様の思考の跡を示しているが、彼の場合、注目に値するのは、隠喩という修辞学的な概念を用いて、諸芸術を統括する態度を示していることである。もちろん、まだ17世紀のことであるから、芸術という語が内包する意味領域も、今日のようには定まってはいない。しかしテザウロが記号論的な芸術理論の試みを見せていることも含めて、今日の拡散する芸術状況にアプロ-チする一つの有効な立場を示唆しているとも思われる。
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