研究課題/領域番号 |
01510149
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研究機関 | 京都大学 |
研究代表者 |
小林 哲也 京都大学, 教育学部, 教授 (90025114)
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研究分担者 |
本山 幸彦 関西大学, 文学部, 教授 (90025099)
江原 武一 京都大学, 教育学部, 助教授 (00012568)
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キーワード | 中等教育 / 中等教育史 / 国際的動向と中等教育 / 教育改革 |
研究概要 |
日本の中等教育制度は、明治のはじめに欧米のそれをモデルとして出発したが、明治中期ごろまでにヨ-ロッパ型のエリ-ト的中等教育制度を成立させた。中学校・高等中学校・高等女学校などは、同時代のヨ-ロッパの各種の中等教育機関にほぼ対応するものとみられる。しかし、明治後期以降、初等教育の義務化がほぼ完成すると、中等教育への進学熱が加熱化し、いわば中等教育の大衆化への途を歩むこととなる。これはヨ-ロッパにおいてもやはり見られた現象ではあるが、加熱の度合は、むしろアメリカのそれに似たものがあった。そして文部省や民間の研究者・教育者の中にも、アメリカ型の中等教育に関心を示すものがみられるようになってくる。ただし、それに対する伝統的中等教育制度の反撥も強く、結果的には第2次大戦後まで中等教育の伝統型は破れることはなかった。しかし、昭和10年代には中学校令による中等教育諸機関の一元化が図られ、これが伝統型を弱めることになり、また他方、青年学校や高等小学校の整備は、中等教育とはいえないまでも、中等段階の教育の大衆化を進めることになった。第2次大戦後の教育改革は、こうした戦前の制度革新を基礎に行われたものであった。確かに改革のモデルはアメリカによって与えられたが、その実現においては必ずしもアメリカ型でなかったのはそのためである。アメリカ型との大きな違いは後期中等教育が選抜制であったことである。そのもっとも大きな理由は、戦前のエリ-ト型中等教育が高等学校に集約的に残ったことによる。新制中学校の設置で日本はヨ-ロッパ諸国の中等教育の総合制化に先立ったが、高校の総合制化には遅れをとることとなる。ただし高校の総合制が問題となる昭和40年代以降には、高校のアカデミックな水準の低下を避ける方法がアメリカで求められ、またヨ-ロッパの総合制中等学校運動にも変化がみられ、日本が一つのモデルを提供する機会が生じてきた。
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