近代日本にとって、最初の植民地の実験場であった台湾では、総督府学務部による政策決定が大きな意味をもっていた。即ち、いわゆる同化政策(assimilation)と適応主義(adaptation)が植民地の教育行政にどのように反映したかによって、異文化間の交流接触の成否がはかられるのである。 こうした観点において、研究の主力を、総督府学務部の担当責任者の政策意思にしぼり、その関係資料の探索と分析に集中することにした。初代学務部長伊沢修二と、同化政策による分離主義の教育方針。その基調の上に推進していく学務課長持地六三郎。さらにこれをうけて朝鮮総督府から転任してきた第2代学務部長隈本繁吉の行政方針の確立。ー特に最後の隈本の場合は、朝鮮と台湾を結合させる存在として注目に価する。その背景には、台湾協会の東洋協会への発展的解消(明治40年2月)という事実があり、第2の植民地朝鮮を版図に収めた日本のアジア共栄圏への構想があった。 大正8年1月「台湾教育令」が公布されるが、これは「朝鮮教育令」(明治44年8月)と同一軌道の上に展開されていく。その背景に隈本学務部長の存在があり、大正7年6月朝鮮総督府警務局長から転補された明石元二郎総督の存在があった。隈本資料のうち今回発見された『台湾之教育』(大正4年・未定稿)や、「台湾教育令制定由来」(大正11年)・及び隈本自筆の「学務部日誌」(明治45〜大正7年)などの分析によって、ある程度の関連性を立証することができた。大正11年2月の第2次「台湾教育令」の基調とする「内地延長」主義の底流に、こうした政策決定者の「思想」が反映していたことが推定できる。 今回の研究において、同化政策における圧制と開明の複合性が明確となり、同時にアジア圏の統合主義の視点(共栄圏思想)に迫ることのできたことが顕著な成果である。今後は側面資料によってこの主題を深めたい。
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