1.府県教育会は、明治10年代から創設され始め、明治20年代の半ばには、3府33県すべてに設置された。教員を中心とした教育団体であった。そのル-ツは、学制期に県当局が諮問機関として召集した学事会議と総称されたものと、教育有志者が結社として結成した教育会とに求めることができる。後者には、「私立」「有志」「共立」などを冠するのが通例だった。明治20年前後に二つの教育会は一本化された。 2.行政(文部省)と教育会の関係は、時に対立・規制することもあったが(明治14年の「達」、明治26年の「箝口令」など)、基本的には、教育界における相互補完関係にあった。特に初代文相の森有礼は、教育会育成策を採った。文部省が連合教育会に、地方当局が府県教育会に、教育施策に関する具体的事項を諮問する慣行が明治30年頃には成立していた。教育会は、旧外地にも設置された。 3.太平洋戦争下の教育団体統制策によって、昭和19年には府県教育会は大日本教育会の府県支部となって独立性を失った。戦後、大部分の府県教育会は解散し、大日本教育会の後身日本教育会も昭和23年8月に解散した。 4.各府県教育会は機関雑誌として府県教育会雑誌を編集・発行した。月刊誌が大部分だったので、大体延べ500号〜600号まで発行された。機関雑誌の発行は府県教育会活動のバロメ-タであるが、それは教育文化、教員文化の創造、普及、画一化に少なからぬ役割を果たした。今日、そのバックナンバ-を揃えている府県は非常に少ない。その発掘、整理、保存は、教育文化財保存の上で大きな課題である。 5.戦前、昭和15年前後から、各府県『教育会五十年史』等の府県教育会沿革史が編纂されたが、その数14府県確認できた。
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