まず1920年代の軍縮論の動向について、大原社会問題研究所所蔵資料や『中外』などの諸雑誌、新聞等を収集しながら検討した。この時期には既成政党から無産団体まで様々な社会集団によって、日露戦争期とは段階を異にした新たな軍縮運動が進められたことが一定度明らかになった。その背景となる平和論の潮流を、キリスト教的・人道主義的平和論、経済主義的平和論、現実主義的平和論、自由主義的平和論、社会主義的平和論にわけ、それぞれの考えかたを探った。この立場の違いが軍縮に対する評価の分裂となってあらわれ、したがって山梨と宇垣の二度の軍縮の生みだしながらも、共通の運動展開の条件はなかなか成立し難かったことがわかった。なお史料を収集し、読み進むことによって、この段階の軍縮論の歴史的意義についてまとめることにしたい。つぎに第一次大戦後の軍拡への志向について、陸軍の対ソ戦略の側面から検討した。対ソ戦準備の不備を補うために「満蒙」が戦略上不可欠の地域と認識され、結果としてちょうど高揚しつつあった中国民族運動との対決をもたらすこととなり、「満蒙」鉄道問題、張作霖爆殺事件、柳条湖事件の前提をかたちづくったことを、陸軍、外務省、それぞれの内閣、政友会、民政党などの動向を検討しながら具体的に検討した。 さらに日中全面戦争から日米戦争に至る過程については、軍縮論が弱まるにつれ軍拡の論理のなかに白人帝国主義に対するアジアの解放という考えや資源取得の平等を主張する広域経済圏論、生存圏ブロックとしての大東亜共栄圏論などが浸透してゆく実態を探った。それはまず第一月近衛内閣の東亜新秩序声明として示され、やがて南進論の底流として重要な役割を果たすことになったと認められる。国民一般についてはなおこのような考えが広がるには時間がかかったと思われるが、それら様々の論点を次年度の課題として引き続き追求したい。
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