筆者はかつて『日本近世割地制史の研究』(雄山閣、昭和57年)で、地ならしを検地・村請→〓→地ならし→割地の過程の中に位置づけて考察したが、地ならしで完結する地ならしについては、広島藩のみの考察で終っていた。幸いに、平成元年度から3か年間「地ならし制の比較研究」で科研費が認められ、熊本藩・鳥取藩・津山藩・萩藩の地ならしの比較研究にとりくむことができた。そして4藩の比較研究によって、次のごとき新知見を得、地ならし制の成立について理論化することができた。1).4藩において、全領一斉の検地は、勧農政策のため、江戸時代初期一度実施されたのみであったので、年貢徴収の土地台帳である検地帳の畝高と、現在の畝高との間に乖離が生じ、年貢の不公平が発生した。2).いわゆる検地をせずに、年貢の不公平を公平にし、あわせて年貢を安定的・合理的に確保(徴収)するためには、村高を変更しないことを原則とする藩の示した実施方法で、農民が実施するのがよい方法であった。つまり年貢徴収方法である土免・春免・段免と密接にかかわって、寛永10年代から元禄初期にかけて、最初の地ならしが、地ならし→土免・春免、あるいは地ならし→段免の過程で実施された。 以上から、地ならしは、検地即ち年貢収奪政策と勧農政策という相互する政策を遂行するために考え出された土地把握および年貢収奪の方法であった。従って、いわゆる検地と勧農政策とを同時に実施することによって、発生する諸矛盾を解決する実施内容となっていた。つまり精農によって増加する生産高を、藩が農民(地主)に或程度認める、という土地政策であった、といえよう。
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