鮮卑族の建てた北魏、古代朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)、倭国との関連を追求した。倭の五王時代における倭国の南朝遣使、ひいては朝鮮三国の動きが、北魏の勢力拡大と密接にからむものであることをのべた。ついで北魏のもつ諸制と朝鮮三国、倭国のそれとの類似を指摘した。すなわち、まず北魏が官僚機構の内部にもっていた内なる官僚制(内朝制)と類似したものが高句麗、百済、新羅にも中裏制、前内部、内省といった形で存在したことを指摘、倭国の内廷にも北魏の「真」官を類似した「人」官の存在すること、それが新羅やモンゴルにもみられることをのべた。ついで、北魏にみられる八部、高句麗にみられる五部、百済の五部、新羅の六部との間にみられる類似を摘し、そうした部制が、日本の部の制度と関連することを想定した。また、こうした部の制が燕にも存在したことを指摘した。ついで、北魏がその勢力を拡大していくとき、それまでの勢力の中核たる旧人層と新たに獲得された領域内における新人層との抗争と融合の存在したことを指摘し、それが朝鮮や倭国にもみられたものであったことを明らかにした。ついで、こうした諸制の類似、及び政治変遷の類似の根幹に氏族制の変容の問題があったことを指摘し、その変遷、変容が中国文化、とりわけその政治制度の導入に大きく関連していたであろうことを推定した。
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