清朝末期から中華民国の袁正凱政権の時期にかけて、中国で最も広範囲にわたって活動した資本家集団は広東〓と寧波〓であり、まずこの二つの資本家集団について研究した。外国貿易の中心の広州から上海への移動にともなって、外商とともに上海に出現した広東〓商人、そしてそれについで出現した寧波〓商人は、上海で買辧や輸出入商品の国内流通を担う商人として活動するだけでなく、漢口や天津などの遅れて開港した都市にも進出していった。こうした広範囲な商業活動によって蓄積された資本は、政策的な刺激もうけながら次第に近代工業に投資されるようになり、上海の近代工業は比較的はやい時期から民間資本を中心として発達することが可能になった。 この上海に比較してみた時に、天津の近代工業の発達はかなり異なった様相を示していることが明らかになった。天津における近代工業の発達は、19世紀中はまったく微弱であり、直隷総督袁世凱による北洋新政の下でやっと始まった。近代工業の発達の開始時期において、民間からの投資はなかったわけではないが、新政を遂行する官僚の役割は決定的に重要で、セメント製造業や鉱業面についての〓州砿務公司の創設を推進したのは、銀元局や直隷工芸局の総辧をつとめた周学煕であり、創設時の資金として政府からの借入れや政府資本の導入が不可欠であった。民間からの投資者も上海の場合とは異なって、官僚それに塩商などの旧式商人が多かった。 天津における近代的綿紡績業の顕著な発達は、第一次大戦期前後にみられた。この時期における民族工業の発達は上海も含めて一般的にいえることだが、天津の綿紡績資本には特色がある。それは軍閥や官僚の投資割合が高いことで、1914年から25年の間に創設された26工場のうち11工場に彼らの投資がみられ、それは資本総額の53.7%を占めていた。
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