今世紀初めのドイツ、とくに中・東部の農業は、東欧からの外国人労働者(「プロイセン渡り」)の移入に大きく依存するようになった「農業生産の現水準の維持」に、彼らの存在は不可欠の要因とされたのである。当時のドイツ農業界にとって外国人労働者問題の核心は、何よりも需要にみあう労働力確保の問題であった。従って外国人労働力の移入を妨げるような国内外の動向には、ドイツ農業界は敏感に反応した。中欧経済協会の1910年ブタペスト総会での議論は、そうした農業界の姿勢をよく表しており、労働力の送り出し側と、受け入れ側との利害の違いとその調整の難しさが改めて浮き彫りにされた。国際的な労働力市場の在り方をめぐる移出国と移入国との利害状況の相違を明らかにするうえで、この会議の論議はもっと注目されてよかろう。 K.J.Badeのいうように、毎年30〜40万人の東欧系労働者の出稼移入は確かにプロイセンの大農業者を深刻な人手不足から救ったかもしれない。しかしその反面、中・大脳層の労働力不足はいっこうに改善されず、大農場でも常雇労働力の確保はいぜん困難であった。農業の人手不足の全般的な好転はとても結論できない。しかもBadeの分析には、国外からの季節出稼の固有な不確実性が考慮されていない。ドイツの農業者側の不断の欠乏感はそこからくる。それだけに一方では、外国人労働者に対する農業の依存体質が次第に危検視されてくる。大戦前夜のドイツ農業は重大なジレンマに直面していたのである。 帝政期のドイツ人社会の反応は、「外国人の氾濫」という流行語に要約される。薄弱な根拠に基づく(外国人による地元労働者の)「駆逐説」がひろく流布した。外国人労働者の雇用による経済的幣害のほか、社会の及ぼす悪影響が多面的に指摘され、喧伝された。「労働力輸入国」の排外主義的過敏性を大戦前のドイツ社会に見ることができる。
|