ハカ-マニシュ朝(アカイメネス朝)に関する同時代のギリシア人の様々な報告によれば、宮延では女性が王妃あるいは王母としての地位を利用して王の決定に介入することがありえたこと、すなわち公的領域(国家・政治)と私的領域(家族)の分割がいまだ完全に実現されていなかったことを知ることができる。これをハカ-マニシュ朝の腐敗・墜落の原因として、ギリシア人は断罪する。 すでに筆者がペルセポリス出土の城砦文書に基づいて明らかにしたように、イラン高原南西部パ-ルサ地方を中心とした王室経済圏においては女性は男性と同様に生産活動の重要な一翼を担い、男性と比較した場合、女性の労働力に対する評価は相対的に低いものの、特殊な技術や経験を有する女性に対しては男性を上回るきわめて高い評価が与えられていた。一方城砦文書をはじめとするオリエント側の史料によれば、ハカ-マニシュ朝の王族女性は自らの所領、労働者をもち積極的に経済活動に参加し、時には王の代理として祭儀を主宰していたこと等を確認することができる。王室管轄下の女性労働者や王族女性についてのこれらの諸事実は、少くとも前6ー5世紀のペルシア人社会では、民主政期のポリス社会(特にアテネ)とは異なり、女性が必ずしも社会生活から隔離された存在ではなかったことを示している。ギリシア人が繰り返す上記宮廷批判は、そのような社会に対するギリシア人の驚き、嫌悪のあらわれであるとみるべきである。
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