ペルセポリス出土の城砦文書は、イラン高原南西部パ-ルサ地方を中心とした王室経済圏における諸活動を記録する。近年あらたに利用することが可能となったこの新史料は、女性が男性と同様に生産活動の重要な一翼を担っていたこと、男性と比較した場合女性に対する労働評価は相対的に低いものの、特殊な技術や経験を有する女性に対しては男性を上回る高い評価が与えられていたのみならず、男性をも含む所属集団統轄の責務が委ねられることもあったことを明らかにする。労働者の家族生活は基本的に保証されていたようであるが、とりわけ女性労働者に対して産後1ヵ月間労働が猶予されていたことが注目される。この措置は「経血のタブ-」と結びついたものと考えられるが、結果として産褥期間にある母体の保護となったことは間違いない。こどもは一定の年齢に達するまでは、原則として母親の労働集団の所属し、先行するオリエント諸国家(たとえばシュメ-ル)におけるような幼児段階での母子分離の政策はとられていない。一方王族の女性に関しては、彼女達が自らの所領、労働者をもち積極的に経済活動に参加し、時には不在の王の代理として祭儀を主宰していたこと等を確認することができる。同様の事例は、同時代のバビロニア出土の経済文書によっても検証される。 ハカ-マニシュ朝(アカイメネス朝 前550ー330)治下のペルシア人社会では、女性は必ずしも社会生活から隔離された存在ではなかった。同時代市民階級の女性を公的領域からほぼ完全に追放し、彼女達を生殖と家内労働の担い手としかみなさなかった民主政期のポリス社会の価値観に基づくギリシア人史家がくり返すハカ-マニシュ朝の宮廷におれる女性の政治介入、陰謀加担に関する報告も、むしろこの観点からみなおすべきである。
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