人がある破局的かつ大規模な出来事に遭遇したばあい、そのショックを受け止め、判断の指針を見いだすための手がかりとして、すでに与えられている何らかのイメ-ジやことばを咄差に思い浮かべることがしばしばある。ヨハネ黙示録のなかにちりばめられた数々のイメ-ジやことばも、そのドラマチックな使信と鮮明な画像性のゆえに、たえず文学者や芸術家の想像力をかきたて、問題の焦点をしぼる役割を果たしてきた。ここではまず、そうした具体的な一例として、ヨハネ黙示録冒頭の「時が迫っているからである」ということばをめぐって、パウル・ツェラ-ンの詩『暗黒』と、その詩のきっかけとなったヘルダ-リンの『パトモス』冒頭の詩句をくらべている。おなじ"nah"ということばから出発しておりながら、時代の危機を真っ向から受けとめて雄々しく乗り越えていこうとするヘルダ-リンのばあいとちがって、ツェラ-ンの詩においては正反対の「負のイメ-ジ」に転換されている。このように、あるイメ-ジを受けいれ、変容させていく感性のありかたや、溶け込まされた経験の質において、作家ごとにまったく異なるわけで、ヨハネ黙示録が根底において「死」の問題をふまえている以上、個々の作家の体験や死にたいする心構えが、ヨハネ黙示録のさまざまのイメ-ジの受容の仕方にも大きな影響を与えていることがうかがわれる。特に児童文学のばあいには、作品そのもののなかに抽象的な論議をもちこまないだけに、かえってそうした根源性がはっきりとあらわれており、黙示録に特続的な関心をしめている作家としてここではまず(スウェ-デン人ではあるが)アストリッド・リンドグレ-ンをとりあげた。ひきつづきミヒャエル・エンデおよびC.S.ルイスのばあいを突き合わせることにより、黙示録の捉えかたそのものとそれぞれの作家の宗教観や人生観との結びつきをあきらにしていくつもりである(この作業は現在続行中)。
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