大道歌の中には殺人や犯罪についての報告が多数みられる。大道歌の中でも殺人事件を取り扱うものは、特にモリタ-トと呼ばれ、事件の発端から、成り行き、結末にいたる迄を歌仕立てで語って、最後に戒めの言葉でしめくくるものである。その種本となるものは、犯人処刑の時に当局より発行される犯罪経過報告書、並びに墓地で行われた聖職者の説教を印刷したものである。中世の裁判では、判決書のほかに「告白書」と稱する被告人の自白が記録されていて、この犯罪自白書(Urgicht)が判決書と共に印刷されて売りに出されていた。本年度の研究においては、犯罪人に対する判決書、及びそれに対する大道歌をとりあげ(例えばDeutenheim生れ20才のJohann L.Freymannの強盗殺人事件に対する1756年7月の判決書)判決書と大道歌の犯罪に対する視点の相違を探り、民衆の犯罪感、及び犯罪に対する庶民の姿勢を検討した。モリタ-トにみられる犯行の動機は、常に単純にして幼稚、短絡的なものが多く、犯行の隠蔽、痕跡の抹消を図る場合は稀である。強盗団の首領の猶予をみてみると、その行動は大胆にして不遜、時として、首領は悪の権化とは受けとらず、理想的人物と言った逆転した評価を下している場合もあり、富裕階級をこらしめる人物と言う受けとり方をしている。犯罪の動機は大道歌では貧困によるものとして漠然とのべられているのみであり、大方の場合、犯罪の原因は生まれながら人間の体質に宿る悪の要因とされ、軽率、浪費、飲酒癖、争い事を好む等、真面目な市民生活とかけ離れた悪癖が犯人の特質となっている。大道歌の基盤にあるものは善の勝利であり、悪業は常に報いをうける。善人の勝利が高らかに歌われ、神の摂理が稱えられるのである。従って話は常に処罰の完成、即ち処刑と、罪のざんげでもってしめくくられる。
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