研究概要 |
大道歌手の売りこむ小冊子の題材は、大部分が歴史上あるいはその時代の重要な事件、目を惹く事件を厚化粧で報告するものである。地震,洪水,船火事,地滑り,鉱山事故といった大惨事、大事故が大道歌手の主要なテ-マとなっている。事故の規模が大きければ、それだけ一層効果的な題材として取り上げられることになる。大道歌手は事故の悲惨な有様を歌って、真実を伝え、人々に恐怖を吹き込み、教訓を与え、かつ人の心に同情を喚び起すのが主眼である。庶民は並外れた事件や災害を耳にして、同情を抱き哀れと思うと同時に、自分や家族だけはそれとは拘りなく無事であることを喜び安堵する。大道芸人の語りは庶民の心に安っぽい同情と満足感を呼び起こし、心の中の感動はセンセ-ショナルな事件を垣間みたいといった残忍な気持と表裏一体となっている。大道歌は保守的で現状肯定の色合いが濃い。18,19世紀において崩壊の危機にあった社会秩序を安定させ,人々の心を慰めると言う点にその役割があった。大惨事、災害に際して民衆が神や施政者をうらみに思ったり神や施政者の仕業に疑念を覚える表現はみられない。1755年のリスボンの大地震を歌う大道歌では、救援の手をさしのべた国王の慈悲を稱え、民衆に、このような神の怒りを招いた罪を悔いるよう促している。神は救いの手を差し出し、善行に報い、悪行を罰し正義をまっとうする。この世の惨事、罪悪が神の所業となることは決してない。惨事、災害の原因には、運命やこの世の攝理といった抽象的概念が用いられ、神は運命、攝理の良き面だけを代表している。神は人間に幸福をもたらすのに力を用いるのであって、不幸や犯罪行為は神の責任範囲外にある。また大道歌でのべられる倫理はキリスト教徒の倫理であって、善良であるのはキリスト教徒、邪悪、悪行は非キリスト教徒、とり分けイスラム教徒の属性に仕立てあげられている。
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