18世紀後半における大道歌の語りの部分と歌の中には未婚の母による嬰児殺人を主題とするものが多数みられる。嬰児が無残な殺され方をすることも少なくないが、罪は専ら女性の性的ふしだら、官能的快楽の追求にあるとされて誘惑する男性の罪を咎めることは殆んどない。大道歌の公演は当局の厳しい検閲を受けるため庶民の困窮の基盤となる政治体制批判、差別問題は全くとりあげられず、批判の的は専ら弱者に向けられる。一方時代思潮を先どりしているシュトルム・ウント・ドラング時代の文学作品は、誘惑する男性の罪が弾がいされ同時に貧困に苦しむ民衆を描いて社会批判を鋭く行なっている。大道歌においては事件や犯罪の原因を厳しく追求する事は稀で悲惨な事件の描写に終止する。苦難の生活を強いられている庶民は、罪を厳しく問われて処刑される犯人の物語、鉱山事故、大災害の描写を耳にし、災難をまぬがれている自分を幸せと感じ、自分は人生をもっと幸せに送っていると考えて自己満足に浸る。大道芸人の語りは庶民に安っぽい同情と満足感を呼び起こし、処刑される犯人への同情などは焔情的な事件を垣間みたいと言った残忍な気持と表裏一体をなしている。大惨事の描写においては事故や災害の原因は追求されず全ては運命の糸の導きとして諦められる。神を恨んだり神の仕業に疑念を抱くことはなく、神は常に善行を報い正義を許えてくれるものとなる。この世の罪悪が神の所業とされることはなく事件や犯罪行為は神の責任の範囲外にある。神はこの世の運命、摂理の良い面だけを代表するのであって人間世界を支配する最高神とはならない。大道歌で語られるのは基本的にキリスト教徒の倫理であって善行、誠実、慈悲はキリスト教徒の備えている属性であり、悪行、邪悪、残忍は非キリスト教徒、とり分けイスラム教徒の属性に仕立てあげられていて、トルコ人の非人道的行為を描写する大道歌も数多くみられる。
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