本研究は、阿波藍を事例にして、近代化過程における在来産業の動向と地域経済の変容過程について若干の検討をおこなうことを課題としていたが、以下その成果の要点をかんたんに述べることにしよう。 阿波藍は、18世紀にはいると急速な成長をしめし、吉野川下流域を中心にしていわゆる藍作地帯が形成されるにいたる。そして、19世紀にはいると幕末期にかけて、その産業組織には大きな変化と分化がみられ、後発藍商や中小藍師層の台頭がいちじるしくなり、こうした構造変化をつうじて、在地における資本蓄積の深化と拡大が進行したのである。徳島県域の経済近代化は、幕末期以降のこのような経済発展を基礎にしていたことは否定しえない。しかし、それはまた阿波藍業の動向が徳島県域の近代産業の動向をも制約することになったものとおもわれる。 貿易統計によると、明治20年代にはいると外国藍の流入が増加しており、それは阿波藍に少なからぬインパクトをあたえたといえる。とくに近世の主要市場であった関東を主な販売地域としていたいわゆる関東売藍商は大きな衝撃をうけていた。それは、本研究において紹介した明治期以降関東市場に進出した後発藍商奥村家の所得構成の変化にもあらわれている。奥村家の藍商所得の比重は明治20年代以降低下するとともに、あらたに諸商業所得が出現し、肥料問屋への転換がみられたのである。そして、こうした衝撃は県内の産地構造にも一定の影響をあたえていたといえよう。それは、当時奥村家よりさらに小さいいわゆる中小藍師であったとおもわれる板野郡藍住町東中富の高橋家の帳薄の上にもあらわれている。高橋家の決算薄によると、明治20年代後半にはその経営が悪化しつつあったのである。かくて、20年代後半の外国藍の流入によって、阿波藍はきわめて重要な転換期をむかえていたといえるであろう。
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