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1989 年度 実績報告書

大正・昭和期における尾西織物業の展開

研究課題

研究課題/領域番号 01530046
研究機関名城大学

研究代表者

塩澤 君夫  名城大学, 商学部, 教授 (20022444)

キーワード大正・昭和期の毛織物業 / マニュファクチュア / 力織機導入 / 賃金支拂形態
研究概要

尾西地方は幕末期以来の主要な機業地であり、現在もわが国最大の毛織物産地である。この地方の絹綿交織物生産から毛織物生産への転換は問屋制家内工業・マニユから力織機を導入した小工場へという生産形態の変化を伴いつつ明治末から大正期にかけて行われ、昭和初期に完成する。本研究はこの過程を先頭に立って指導した鈴木鎌二郎家(鈴鎌毛織株式会社)の膨大な資料によって解明しようとするものであり、平成元年度までの調査成果は、次の諸点である。
1.鈴木家の織物業創業は明治11年。明治25年に大工場を新築しバウタンを導入して絹綿交織物を生産した。規模は明治28年現在、織機65台、織工男10人、女60人の大マニュであった。明治42年には男工20人・女工120人に拡大し、明治43年からは毛織物生産も開始した。
2.大正6年から力織機の導入をはじめ、平岩鉄工製2巾22台、大阪小森鉄工所製2巾14台の他に、英国ホジソン製4巾機15台を高島屋飯田を通して輸入した。大正14年の規模は、6巾6台・4巾61台・2巾38台となり、動力はモ-タ-55馬力・蒸気10馬力であった。このような大規模な力織機導入には莫大な資金が使われているが、この時期に土地を売った形跡はなく、今の所資金調達の事情は不明である。
3.労働力に関する資料は膨大でまだ一部分しか分析していないが、以下の諸点が明かになった。明治末までのマニュ段階には手工業技術が重要なので、明治末の賃金は熟練度に応じて6機〜22機まで差が大きい。支拂形態は出来高拂いである。力織機導入後は日給・月給制となり、技術・熟練・熱意・模範になるか否か等を基準にした等級賃金制がとられている。大正期には毛織機と力織機が併用されており、出来高拂い労働者と固定給労働者とが併存してきわめて複雑な形態となっている。

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公開日: 1993-03-26   更新日: 2016-04-21  

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