本年度は、津藩「宗国史」、藤堂元甫「三国地誌」、関係市町村史、地誌取調書、郷土学習資料等の文献より資料を採集し、併せて各市町村在住の郷土史研究者を探訪した。 当地の阿波・広瀬の東大寺杣は、755年勅令により編入され、1186年の東大寺再建では副材が採取され、木津川を堰出しにより流送し奈良に送られたという。他方、現在では当地の人工林率は56%に達しており、素材生産量14万m^3、7原木市場が存在する。これを結んで考えると、当流域は先発林業地帯に属するとの予見のもとに研究に着手した。 しかし、現在までの研究によれば、(1)荘園時代の伐採跡地の更新に人為が加えられた形跡は認められない。(2)伊賀材を奈良で買い取ることを1584年に秀吉が禁じているので、近世初頭には木材生産、販売が行われていたことがうかがえる。(3)1608年に移封されてき藤堂高虎は国防上の理由で、木津川の利用を禁止し、諸道を険阻のままにおいたので、江戸期を通じ木材の商品化は進んでいない。(4)他方、農業は相当規模の展開をみたので、大半の林野は農民による入会採取利用に供され、森林は荒廃した。(5)そのため、淀川の治水に支障があるとして、幕府は砂留林の造成をしばしば命令している。(6)人工造林が行われるようになったのは明治後期以降とみられる。等が判明した。 この結果、当地の林業は予見に反し、中間ないし後発の林業地帯に類型化される。このことに大きく影響しているのは、津藩の治政であり、農業であるといえるが、成果を公表するまでには至っていない。来年度は上記の実証資料を集積し、肉付けしたい計画である。
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