朝鮮と江戸は政治體制における「知識」(knowledge)の形態と意味が相當違った朝鮮は一三世紀末、反佛教的立場を表明した朱子學的知識人と武將たちの政治連合によって建國された。その結果、政治體制は朱子學的理念によって創られ、維持されるだけでなく、また政治體制の究極印目的も「性理の悟」であった。 しかし、江戸の政治體制における知識の形態と意味については見解が對立されている。特に、日本の文化と社會のうえに儒教がどれほどの影響を及ぼしたかについて、兩極端的な見解が對立している。まず、丸山眞男と相良亨は、宋學が一七世紀初の江戸初期以降、主導的な思想になって、その後古學と國學運動によって自己解體されたと見ている。その見解に封して渡辺浩は、徳川時代の前期、少なくとも綱吉の頃まで、宋學が學問としてにしろ、政治と倫理に關する教義教説としてにしろ、また物の考えとしてにしろ、廣く普及し受容されていたなどと解することは、表見的・相対的盛行にかかわらず、できないと結論することは許されよう。そして、思想の内容や構造において、徳川初期の政治や社會の在り方に特に対應するものだったとするのも難しいと主張した。むしろ、日本儒學史は、長期に渡ってじっくりと展開された外來思想の受容・修正・包攝と、それへの対抗のからみあった巨大で複雑な過程であった。つまり、尾藤正英の指摘の通り、「儒學は近世の社會において、どのような役割を果たしていたのか」という問題は、今も「實は未解決のまま」であろう。 ところが、前田勉によれば、江戸日本は儒學ではなく、兵學的知識によって支配されていたと述べている。
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