本研究は、中国、韓国、日本において展開した八部衆像について、作品の実地調査を行うことを第一として取り組み、その資料をもとに実証的な立場から研究を進めてきた。その過程において、本年度は韓国におけるこれまで未確認の作例および新出作例を中心に調査を進めてきた。韓国における八部衆像は、おもに統一新羅後期から高麗前期(8世紀後半〜10世紀前半)の石塔に浮彫されている。既報告のこれらの作例は実地調査を行い、その成果を論文および口頭発表という形で行ってきた。これまで8世紀後半〜10世紀前半の石塔を中心に調査を進めてきたが、その一方で、高麗後期以降の作例においても関連する作例を見出すことができた。これは、韓国における八部衆像に対する受容の一側面を端的に表現するものであった。高麗時代以降に造立された石塔および浮屠の基壇上部に浮彫される神将像、「神衆幀」に登場する多彩な神像の中には、これまでのような明確な八部衆像とはいえないが、八部衆像の図像の名残を見せる神将像が多く含まれていることが明かとなった。ここには、八部衆像の図像として普及していた神将像の一図像が、その尊名は失われていても図像だけが存続して用いられ続けていた事実を示している。10世紀は中国では唐から宋へ、朝鮮半島においては統一新羅から高麗へと、巨大な王朝が転換した時期である。唐王朝の仏教政策が大きな弊害を生んでいたことに対抗し、宋王朝では唐代仏教の否定の立場にあり、懐古的な仏教政策がとられた。それに伴い、これまでのように盛んに新図像の創造が行われなくなった。韓国においても中国におけるこのような状況を反映し、高麗王朝は仏教を厚く保護するものの、中国からもたらされる新しい図像の情報を得ることができなくなったといえる。そのため、これまでに造られてきた図像の中から、目的に応じて適宜選択し、図像の混合・応用を行うことになったと思われる。まさに、韓国における八部衆像の図像の変化はこれと呼応するものであり、韓国における八部衆像の図像の研究は、東アジアにおける仏教の動向をうかがうことができる一資料となった。
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