本年度は、基礎資料の収集・整理・検討を前年度に引き続き行いつつ、前年度に導かれた記紀神話に関する方法論を、復古神道のより大きな枠組みの中で再検討して修正を施すことによって、イザナミの出産と死穢の場面を捉え直すための新たな観点を獲得した。また、伊勢中村町の伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮の現地調査を行った。 まず、(前年度の)「祀る」という概念による神と人との峻別という方法諭においては、イザナミの「死」に際して発生したイザナキ・イザナミの「感情」が取り零される危険があるということがわかった。即ち、イザナキの「悲し」・イザナミの「悔し」という根本感情は、イザナミの「死」によって初めて顕現したものであるから、イザナミの「死」は、これらの根本感情と一体的なものとして捉えられなければならないということが明らかとなった。そこから、本居宣長の文芸における「感情」の論を再検討したうえで、宣長においては未完にとどまっていると思われる、神話における「感情」の論、あるいは「感情」と一体のものとしての「死」の論への拡張が、本研究の更なる課題として浮上してきた。 そこで、以上の問題関心に最も適しており、またイザナミの「死」および「穢」の中古的継承形態として位置づけられ得、また具体性にも富む『源氏物語』の夕顔の「死」および「穢」について、「感情」と一体のものとして考察することを試みた。死ぬ夕顔と生きる光源氏との間においては、ずれを伴いつつも「心細し」という感情の伝染ないし共有があるのに対し、死ぬイザナミと生きるイザナキとの間においては、感情は相補的ではあるがどこまでも峻別されるものであること、共通点としての「悲し」はいずれも生者の側のものであること、最たる相違点として死者の死後の存在の有無、などが明らかとなった。
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