研究課題
国際学術研究
本研究計画は、南シナ海交易圏の結節点として繁栄した中部ベトナムの港市ホイアンの歴史生態的位置の変遷について、歴史学・考古学・農業生態学などの方法を総合した学際的研究を行なおうとしたものである。またこれは、1990年3月にベトナムで開催された「古都市ホイアンに関する国際シンポジウム」の後最初の、ホイアンに関する国際学術交流であり、同シンポの成果と残された課題を確認し、今後のより個別的なテ-マの研究の見通しを立てる担いも持っていた。ベトナム側のチュ-・バン・タンが参加出来なくなった外は予定メンバ-全員が参加し、日本側からは予定通り7〜8月に桃木・量・八尾が、12月に桜井が、各3週間訪越して調査・研究活動を行なった。調査の第一の重点は、ホイアン市内外の遺跡・遺構や生態環境を実見・調査することにあり、7〜8月の調査では、旧市内の建築遺構や日本人墓など17世紀の日本町関係の遺構・遺物を一通り調査しただけでなく、市周辺の先史時代(アンバン、ハウサ-、タインチエム、チュンフオン)、チャンパ時代・ベト人時代(コンチャム、チュンフオン、ココ川旧河口)などの遺跡とそれらの出土器(土器、陶磁器、古銭など)を調査し、さらには近隣のチャキエウ、ミソンのチャンパ遺跡とその出土土器、フエの阮朝各皇帝陵と王宮に伝わる陶磁器なども踏査・見学した。また河道の変遷と遺跡立地の関係、都市ホイアンを支えた手工業(織物、土器、鋳造、造船など)についても概観することが出来た。一方12月の調査では、上記各遺跡やベト人時代の港市の立地と地形・河道の変遷、周辺農村の農業開発の状況など、生態に関する調査を集中的に行なった。第二の重点である文献資料の調査研究は、ハノイ(7〜8月)、ホ-チミン市(12月)の双方で行なったが、時間と関覧条件の制約で、未見資料の十分な検討は出来ず、むしろ日本側資料についてベトナム側研究協力者に紹介した点に意義があったと思われる。以上の調査活動から各研究分担テ-マについて得られた成果と見通しとしては1.考古学関係では興味深い点が多かった。特にホイアン・シンポ以来予想されたこの地域での青銅器(プレ・サ-フィンないしサ-フィン前期)ー鉄器(狭義のサ-フィンないしサ-フィン後期)ーチャンパ時代という文化発展の大枠が確認された。これをより詳しく究明する材料となる土器も、チャンパのものを中心にかなりの量が出土していることがわかった。2.生態についても、ホイアン・シンポで提出された地形・川筋の変遷と遺跡・街並み立地との関連がよく詳しく確かめられた。農業生態の変遷については北部ベトナムで行なわれたような農業史、農村史の詳しい研究は行なえなかったが、その重要な材料となる土地文書その他の所在が明らかにされた。3.歴史学については、チャンパ時代、朱印船時代などのホイアンの、日越貿易や南シナ海交易、世界貿易における意義と位置、それとホイアンを支配した国家との関わりなどについて日越双方で活発な議論が行なわれたが、日本町と日本人に関係する新資料とされたものの多くは明確な根拠を持たないこと、むしろ18〜19世紀の華僑町の資料として重要な遺構・遺物が至る所に見出されることから、個別日越関係にとらわれないより広域的な研究が必要であるという点で、全体の意見が一致した。以上本研究は概査にとどまった面が多いが、ベトナム初の科研費による調査として、考古学を中心に一定の成功を収めたと考えられる。これらの成果については報告集(表題は研究題目と同じ)の出版を準備中である。また上のように引き続き解明すべき課題がいくつかあるが、今回のメンバ-を中心に、生態研究と文献史学を結合させ、今回の直接のテ-マであった「南シナ海交易」と「港市ホイアン」を支えた農業社会の歴史を明らかにしようという計画について、日越双方の話し合いが進められている(題目「南シナ海世界の中の中南部ベトナム農村」、代表者桃木で平3科研を申請したが不採択だったので、平4科研再申請を予定している)。
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