研究概要 |
上水用の導水施設としては石組溝・石組暗渠・木樋・瓦製土管が古代から公的施設で用いられていることが判明した。一部で銅管も利用された。木樋は古墳時代に始まる。奈良県纏向遺跡(4世紀前半)には木樋暗渠,開渠による通水管と木製水槽による浄水施設が,群馬県三ツ寺居館遺跡(6世紀前半)には木樋による水道管と水道橋とがある。初期大和政権所在地や大豪族の居住地では小規模ながら規格性のある水道施設が存在したことになる。これら技術の起源・系譜,飛鳥時代以降の水道施設との関連等の解明が今後の課題となる。飛鳥の都では石組溝を甚幹水路として,これに木樋暗渠,瓦製土管暗渠の通水管を結んで広範囲に導水した上水道綱が整備されていたことが判明した。これらは飛鳥の各地にあるが、飛鳥寺の南方からその西北の水落・石神遺跡周辺では南北500m以上にわたる大規模、かつ規格性の高いものである。水時計施設・噴水石(石人像・須弥山石)もそれと一貫した施設であることが判明。揚水機としては水車が用いられたらしい。これらは斉明天皇の時代に属し,この時代に飛鳥の都づくりが本格化したことと関連し,水道施設の整備もその重要な要素であったことが判明した。中国古代の水道利用の実態の解明も進めているが,飛鳥の都における通水管の技術・揚水技術・噴水装置などは中国系の技術が導入されたものであり,飛鳥時代は水利工学的科学技術の上でも大きな画期であったことも判明した。しかし,藤原宮以降の都城大宰府・多賀城等では,むしろ井戸利用が目立つ。さらに実態の解明を進め,それぞれの宮都・官街遺跡の特殊性を明らかにしていくことも今後と課題となる。小田原城三の丸遺跡において発掘を実施し、木桶による浄水施設と竹管による通水管を用いた水道施設を発見した。その技術は古代と大きく異なるところがない。今後は中・近世の水道施設についても検討を進め,古代技術との関連の解明を進めたい。
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