研究分担者 |
渡辺 善雄 宮城教育大学, 教育学部, 助教授 (50106960)
原 研二 東北大学, 文学部, 助教授 (60114120)
仁平 道明 東北大学, 文学部, 助教授 (00042440)
佐藤 伸宏 東北大学, 文学部, 助教授 (70148724)
小田 基 東北大学, 教養部, 教授 (80005769)
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研究概要 |
造形美術を表現した文芸作品について,本共同研究は古今東西に亘る多種多様な具体的事例を集めて考察を重ねてきたが、そこに得られた最も基本的かつ示唆に富む事実は,その造形美術が架空のものであるか(1),現実に存在する著名の美術品であるか(2),によって,言語による表現上,種々の点で大きな差が存在するということである。たとえ,作家・詩人が現実に存在する美術品からヒントを得たことが実証された場合でも,その美術品が周知のものでなければこれは(1)に属する。(2)の場合とは,読者がその美術品を当然知っていることが前提となっている場合で、モナ・リザ像,ミロのヴィ-ナス,ラズ・メニナス等であるが、全く無名の工芸品の場合,いかに美的価値の高いものとされていても,雛人形やランプのように日常的にありふれた,読者が直ちにその影像を思い浮かべることが可能な物体は、モデルの有無に拘りなく(2)に入る。 (1)(2)を対照すると,作家・詩人が想像力と表現力を擬集させ,影像を読者に髣髴とさせるべく努力が払われているのは(1)の場合で,散文作品では当の美術品に超自然の力が賦与されることも多い。(2)では,その美術品に対する読者の平均的通念を前提とし、それを否定したり,変更を迫ったりするなど、それを利用することが多い。自己の鑑識眼が問われていることを,作家・詩人が意識するからである。同一表現者が文芸と美術の双方を実行した場合(D.G.ロゼッティの『天上の乙女』など)は,言語芸術に可能なイメ-ジ喚起力の諸性格とその有限性,両芸術の表現上の基本的な差違が明白に示されている。 実在する美術品が描写の問題を超えて詩作品に深い内的影響を及ぼしている場合(リルケの『第五の悲歌』など)では,詩に表現されるのは絵画に画かれた影像そのものではなく,影像はその一端を示すに過ぎぬひとつの大きな世界であることが理解された。
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