津山洋学資料館、武田薬品杏雨書屋、早稲田大学・天理大学図書館その他、各地にある宇田川榕菴ならびに関連する人物の稿本を調べ、コピーをいただき、コピーを許されないものは書き写し、これを整理、解析して、宇田川榕菴全著作、稿本類の解題を書き、さらに宇田川榕菴の全体像を明らかにすべく作業を進めている。 宇高川榕菴(1798〜1846)の初期の稿本は、『厚生新篇』に関連したものが多く、今日、稿本としてその実物がつきとめられないもの(書かれたという記録はあるが)も、『厚生新篇』の記述からうかがうことができること。これまで稿本の名のみあって、その存在場所が不明であったもので、その存在が明らかになったもの。また、存在さえ知られていなかったもので、榕菴の稿本として確認できたもの。また、逆に、榕菴のものとされているが、印があっても、榕菴のものとは考えられないものなど、多数の稿本が確認できた。目下、整理解析をすすめている。 この宇田川榕菴の稿本などの探索の途上で、別の新知見も得られた。とりわけその中で、榕菴の祖父、宇田川槐園の稿本と遺骨の発見は大きな意義があった。槐園についての研究は、これまでほとんどなされてこなかった。しかし、榕菴が、今日、日本の近代化学の祖と云われる仕事をなしとげるには、彼一代だけでなく、宇田川三代の継起的展開によるものであることは、筆者も述べて来たところであるが、その第一代の槐園の稿本類と榕菴の稿本類との関係を知ることができたのは、今回の研究の当初には予想できなかった収穫であった。また、榕菴の周辺にいた蘭学者たち、とくに、緒方洪菴(1810-1863)の訳と思われる舎密(化学)の稿本との比較、さらに、後継者川本幸民や宇田川興斎、宇都宮三郎の稿本との関係が明らかになったことも、榕菴の歴史的位置づけを明らかにするうえで有意義であった。さらに解析を続け、まとめたい。
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