本年度の研究の目標は、歴史を叙述する言明の特質を語用論および言語行為論の概念装置を用いて解明することであった。その過程で明らかになった幾つかの重要な論点は以下の通りである。 1.歴史叙述の対象である「歴史的事実」は、過去に生起した出来事のありのままの再現ではない。過去の出来事が「想起」という行為を通じて再現されるとき、そこでは記憶の遠近法による濾過と秩序づけが行われ、出来事は一種の「解釈学的変形」を被らざるをえない。それゆえ、歴史的事実は「客観的事実」であるよりは、むしろ「解釈学的事実」と呼ばれるべきものである。 2.過去の出来事が歴史的事実となるためには、単に「想起」されるだけでなく、それについて「語る」という言語行為による媒介が不可欠である。「語る」という行為がなければ、想起された出来事は単なる個人的感懐や思い出に留まる。思い出は「語られる」ことによって初めて「構造化」され、「共同化」される。「語る」という行為を通じた過去の出来事の構造化と共同化こそが、歴史的事実の成立条件である。 3.「歴史を語る」という特徴的な言語行為を「物語行為」と名づけたい。英語の“history"と“story"とが語源を同じくする語であることからもわかるように、「歴史」と「物語」とは対立するものではなく、むしろ歴史の原型である「口承」や「伝承」を見れば明らかなように、両者は表裏一体のものである。「物語行為」は、想起された出来事を一定のコンテクストの中に配置し、それを時間系列に従って配列することによって「歴史」を構成する。それゆえ、「物語行為」は、われわれの「歴史的経験」を構成する最も原初的な言語活動にほかならない。 以上の知見に基づいて、「物語行為論」を「歴史哲学」の基礎理論として位置づけること、これが次年度の目標である。
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