基本資料の収集に関しては、フレネ教育運動の機関誌“L'EDUCATEUR"の1946年再刊号から1958年までをマイクロフィルムで、また、名古屋大学教育学部所蔵の同誌1958年から1968年までの主要論文をコピ-で入手した。1946〜58年分については、主要論文の題目、著者等を検索可能な形でデ-タ-・ベ-ス化した。これらの資料の分析から、本研究の系統性を考察するのに二つの時期が重要であることが明らかになった。 一つは、フランス共産党の機関誌“Nouvelle critique"誌上等でフレネ教育に対して批判がなされる1950〜1955年の時期である。J.テスタニエ-ル教授(ボルド-第II大学)の先行研究を糸口に検討中であるが、ソビエトの1931年学校政策以来強調されてきた「教授の指導性」という点からの批判が中心であり、フレネ教育のみならずフランスの新教育に重大な影響をこの批判はもたらした。 二つは、「学習文庫」が小学校低学年用、中学校用へと拡充されていく1965〜68年の時期である。この期の前後に刊行された小学校低学年用「学習文庫」の相互指定関係を個別的に分析することでそれが明らかとなったのだが、現在この増加する指定関係がどのような系統性をめぐる議論によってうみだされたのかを検討中である。 なお、これまでの研究で得た知見の一部を1990年10月にボルド-で開かれた「フレネ教育の現代的意義に関するシンポジウム」で報告し、フレネ教育の運動当事者、研究者より貴重な示唆を得ることができた。また、同年8月アメリカ合衆国セントルイスで開かれた第1回Whole Language研究集会に出席し、フレネ教育との比較から多くの示唆を得ることができた。
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